ヴィンテージ・スタインウェイのおはなし:⑩   by 坂上麻紀

④~⑥で述べたように,ヴィンテージ・スタインウェイは微妙な歪(ひず)みを持つ鉄骨(特にバー群)と良質な木材から作られたリムに由来する個性豊かな発声能力を特徴とします。最終回となる⑩ではこれにまつわるおはなしの補足をさせて頂きます。

ヴィンテージ・スタインウェイの鉄骨は発声能力に深く係わる3つ機能を担ってます。響板を弾性的に支持しボディー全体からの発声を可能にすること,ハンマーの打撃による張力スパイクを柔らかく取り込みアタック・ノイズを抑えること,一旦吸収したアタック・エネルギーを弦全体へと放出し,低次部分音生成を促すこと……この3つです。

これらの機能は長いバー群を持つ大きなピアノの場合ほど強く現れるようです。とはいえ,第一次大戦終結後に製造された,もっと若いヴィンテージModel Dの中には演奏中に観察されるセンター・バーの共振がかなり弱々しくなっているものもあります。

1970年代以降の剛直な鉄骨を持つニュー・スタインウェイからはアタックノイズと硬質の発声が観察されるようになっています。

歴史的にみれば,ピアノとクラシック音楽の作曲家とは互いに競い合うような形で世代交代を重ねて来ましたが,その伝統はヴィンテージ・スタインウェイと同時代を生きたラフマニノフ(1873~1943)で途絶えてしまったようです。

スタインウェイ・ピアノの発声能力の歴史的変化を裏付ける客観的データとして,その整調基準の変更があげられます 。

私はNo.104611に施されたダンパー・鍵盤・アクション回りの徹底的なリビルドと整調を通じてそのことを教えられました。

鍵盤整調の終りにNo.104611の「打鍵距離」が47mmという“現行標準値”に変更されたのです。

打弦距離とは休止しているハンマー・ヘッドと弦の下面(したつら)との距離のことで,これが長くなれば(他の条件が等しいとして),ハンマーの加速時間(距離)も長くなり,レットオフ(ハンマー突き放し)時の最終速度は高められ,打弦エネルギーは増し,逆は逆になります。

そして,この作業が終了した時,私はピアノの声量低下に,がく然とさせられたのです。そこで,声量低下の原因を尋ねようと私はいくつかの文献を調べました。

打弦距離を具体的に載っている文献は案外少ないのですが,45mm,47~48mm,48mmといった値が見られました。

しかし,アメリカのWhiteは戦後の著作の中で,それが「ほとんど常に」1.875インチ=47.625mmとなるべきであるとした上,わざわざ注を付けて,「スタインウェイ・グランドにおいてこの距離は1.750インチになる」と書いていました 。

彼が語っている以上,これはニューヨーク・スタインウェイにかかわる数字なのでしょうが,1.750インチならたったの44.45mmです。

この数字はハンマー・ヘッドを硬化剤(ジュース)でカチカチに硬められたニューヨーク・スタインウェイならではの値のようです。

一貫して硬化剤を使用しないで来たハンブルク・スタインウェイにかかわるドイツの文献には47mm,47.5mmといった数値例が載っていました。

ハンブルク・スタインウェイで製造工程「合理化」のリーダーを務めたMatthiasはその著書の中で,それは47mmとされるべきであるが,最高音部ではトリルを容易にするため45mmに詰めてもよい,と書いています 。


M., Matthias, Steinway Service Manual. p.103 Figure 4(S.23, Ab. 4).

1981年に出版されたReibeholzの著書には打弦距離は47mmであり,決してこれを超える値に整調してはならない。経験的にはアフタータッチの確保が可能な場合にはこれを45mmに短縮しても構わない,と書いています 。

以上の点から,少なくとも1980~’90年代を通じてハンブルク・スタインウェイの整調基準は不変であり,標準の打弦距離は47mmであったと結論してよいでしょう。

ところが,Reibeholzの書に20年ばかり先立つ1963年,同じ出版社から出版されたDietzの著書では打弦距離について,小さいモデルS~Bにおいては4.6cm,大きいCとDにおいては4.9cmと明記されていたのです 。


F.,R., Dietz, Das Regulieren von Flügeln bei Steinway. S.44.

彼の著書の現役当時、製造台数の少ないC, Dの鉄骨は古い鋳造工程から生み出されていたのではないかと考えられます。それらの鉄骨は一足先に近代化された工程から送り出される量産機種,S~Bのそれよりもアタック・エネルギーの善用能力に優れており,長い打弦距離から生ずる大きな打弦エネルギーを活用できたのでしょう。

彼の書物は1963年の初版以降,’74年に新装版が,’81年にその重版が出版されています。そして,同じ’81年には同一の出版社から指示内容の違ったReibeholzの新著が刊行されているのです。

ピアノ自身の質的変容,恐らくC, Dの鉄骨鋳造における新しい技術の導入を前にしてDietzの著書は現行品整備マニュアルとしての役割を終え,その第3版はヴィンテージ・スタインウェイ整備マニュアルというほどの意味合いで少部数,発行されたのでしょう。

Dietzの著書から浮かび上がって来た打弦距離2mmの短縮はスタインウェイ・ピアノの戦後史にとって決定的に重要なデータです。それは間違いなくニュー・スタインウェイにおける音割れ対策をものがたる数字だからです。

ハンブルク・スタインウェイにおいては鉄骨の剛直化の結果,アタック・エネルギーがアタック・ノイズとして放散されるしかない情況が生み出されていたと見えます。

その結果,大形モデルは打弦距離2mmの短縮という変更を余儀なくされ,ほどほどのスペースでおとなしく弾かれることの多い中・小形モデルについては競合ブランドとの対抗を意識した声量アップのため,逆にこれを1mm延長されたのでしょう。

現行のハンブルク・スタインウェイにおいては一頃の製品のようなダミ声は幾らか抑えられています。しかし,その発声パワーの低下は否定できなところで,各方面からはこの点に対する執拗な批判が寄せられ続けています。

このようなピアノに適合する“新標準値”は当然のことながら弾性的な鉄骨とニューヨーク純正品ながらカチカチに硬化されていないハンマーを持つNo.104611には不適合な値です。そのような値が採用されたため,本来の発声能力が阻害された……以上が簡単なストーリーでした。

後日,No.104611は打弦距離49mmへの再整調によってそのパワーを取り戻しました。

業界内部では周知となっている事実を一つ受け売りしておきます。ハンブルク・スタインウェイは2007年頃,そのパワーの低下に対する各方面からの批判に応えるためキャプスタンとウィッペン・ヒールとに傾斜を与える昔の設計をもう一度行いました。これによって鍵盤ストロークを伸ばすことなくハンマーの加速度を増してやろうという狙いからでしょう。

その後,この時には打弦距離を49mmに戻すという回帰策まで指定されていたとの裏話まで聞かされました。

ところが,その結果,アタックノイズやハンマー加速度以前の問題として“鍵盤の初動が従来より極端に重くなって弾きづらい”という手厳しい批判が起こり,3年ばかりでフラット・ヒール付きの従前型アクションが再び使われ,打弦距離も47mmへと戻され,今日に至っているそうです。

打弦距離わずか2mm……この狭い空間をどうするか,そこに近代ピアノの定礎者スタインウェイ・ピアノの片方における劣化とそこからの再生の道の険しさとが表現されていたのです。ことの本質はニューヨーク・スタインウェイでも観察されていたことでしょう。

打弦距離49mmからの微妙な再整調や整音を通じてNo.104611の力量を見事に回復して下さり,技術にまつわる様々な業界事情まで教えて下さった調律家 Tさんは本年12月にご逝去なさいました。これまでのご恩を感謝するとともに,心からご冥福をお祈り申し上げます。