灘の生酒に肴は鯨   捕鯨について考える

メイン・タイトルは1928年に出た歌の二番冒頭。歌い手は著名なハーフのテノールで,子供の頃TVで視たその印象は実に鼻持ちならぬ爺さんといったところである。この男が高唱すれば歌詞とも相乗していかにも勇ましいパフォーマンスとなった。
しかし,技術論として観れば当時の捕鯨は未だその勇猛さの極致には達していなかった。捕鯨反対論や日本のIWC脱退など,かまびすしい世相であるが,こうした点について暫し考えてみたい。

キリスト教の目的論的自然観
西欧的な捕鯨反対論の根底にはキリスト教一流の目的論的自然観があるように想われる。即ち:星は真夜中に方角を知らせるために造られた,馬は運輸用具として造られた,牛や豚は食肉やミルクや皮革を提供するために造られた,羊や木棉や麻は繊維を提供するために造られた……といった観念である。
勿論,創造したのは神であり,それらを利用させてもらう役得は人間様だけのものである。つまり,そこに見られるのはご都合主義そのものの世界観である。さればこそ,ガリレオが粗末な望遠鏡を初めて夜空に向け,肉眼では見えぬ数多の星を発見したことは同時代のキリスト教団にとって怪しからぬ所業であった。何故なら,目視できぬ星たちに方角をヒトに教える機能など備わっていよう道理などある筈もないからである。
序でながら,土星にツノ(輪)があることも天体=神界のもの=完全球体という既成観念に抵触したし,衛星を従えた木星があたかも地動(太陽中心)説に謂う太陽系のひな型のごとき様相を呈していることも許し難い発見であった。 
キリスト教は鯨を知らぬ地域で誕生したからヒトに食われるべきモノという位置付けをそれに与える気構えとはそもそも無縁であった。そのような眼で捕鯨や鯨肉食を見れば自ずと邪教徒の蛮行という理解にもなろう。

西欧の捕鯨
もっとも,帆船時代のアチラにもかの『白鯨』に象徴されるような捕鯨文化があり,1841年,無人島に漂着していた中浜万次郎を助けたのもアメリカの捕鯨船である。但し,西欧流の捕鯨は低温でも粘らぬ高級油脂として高い利用価値を認められていたマッコウクジラの脳油獲得を目的とす行為であり,鯨肉など他の部位は概ね産業廃棄物であった。鉱油や合成油といった代替物が進化を遂げたことにより鯨脳油への,つまり捕鯨へのニーズは霧消して行った。裏を返せば誠に勝手なモノである。

日本の捕鯨
欧米とは対照的に,日本では次の図に示される通り鯨の利用は徹底的・体系的で,ほとんど捨てる部位なく利用し尽されていた。先ず,鯨の種類と大きさの比較から。

竹田繁夫著/資料・写真提供 大洋漁業 捕鯨船団 「捕鯨」,産業教育協会『図説 日本産業大系』第6巻,1961年所収,より。

次に,鯨の利用形態。

同上,より。

鯨の習性と捕鯨船の隠密行動
とは言え,そもそも帆船のごときを用いる時代から鯨が獲れていたことについて訝(いぶか)しく思う向きもあるかも知れぬ。それが可能であった理由は簡単で,鯨の習性を利用した隠密行動が画策されたからである。鯨は長時間潜航する能力を持つが,血液のガス交換を十全に行うには二呼吸やそこらでは済まず,何度も浮上しては呼吸を繰返す,つまり潮を吹くことが必要な生き物でもある。
この一連の長い呼吸動作の始まりを捉えるべく鯨を待ち伏せし,首尾よく発見できればカッター(手漕ぎボート)により急接近を図り,手投げ銛(もり)を放つ。つまり,それが可能な位置取りさえ叶えば捕鯨母船が帆船であってもキャッチャー・ボートが手漕ぎであっても立派に鯨を仕留められたワケである。

Steam Catcher時代
実は,隠密行動という点に関する限り,1864年,ノルウェーで蒸気船に大砲を載せた改造キャッチャー・ボートが誕生し,更には銛が捕鯨砲から発射されるようになってからでも同じであった。スチーム・キャッチャー(蒸気捕鯨船)に鯨を徹底的に追込んで仕留めるほどの船足はなかったからである。
その反面,蒸気機関はデッドスローからピークに至るまでその制御が自在で逆転も得意である上,騒音も低かった。この特性を活かし,漁場を前後左右に漂いつつ獲物を発見すれば極低速で秘かに忍び寄り,気付かれぬ内に銛を撃込む……これがスチーム・キャッチャーの運用法であった。
下の写真はキャッチャー・ボート用の3段膨張1000図示馬力レシプロ蒸気機関で540総トン型捕鯨船主機。その起源は古いものの,実際は石油が統制下に置かれていた戦後復興期の製品である。

The Uraga Dock Compny, Limited, Marine Steam Engine & Boiler. c.a., 1953,より。

これに蒸気を送るボイラは石炭焚きのスコッチ・ボイラであった。1000図示馬力レシプロ機関の方は戦時標準貨物船2DRS型の主機の流れを汲む製品かと想われるが,スコッチ・ボイラなど19世紀に起源を有する機械そのままで’39年時点における平時標準船にも採用されていなかったようなシロモノである。そして,件のいかにも勇まし気な歌は重く嵩張る割りに低出力のパワープラントを持つスチーム・キャッチャー時代の流行歌であった。

Diesel Catcher時代
しかし,両大戦間期よりモーター(ディーゼル)船の進出は著しく,捕鯨船においてさえ既に1937∼’38年にはディーゼル機関の軽量・高出力性を活かして鯨に気付かれながらも優速を以て強襲する勇猛にして暴力的なディーゼル・キャッチャーが提案・実用化されるに至る。
そして,世界初のディーゼル・キャッチャーを誕生させたのは他ならぬ日本であった。その嚆矢は1937年,林兼造船建造の大洋捕鯨,関丸297総トン(新潟-Nobel 2サイクル900制動馬力,14ノット),’38年,函館船渠建造の同,文丸359総トン(新潟-Nobel 1200制動馬力,15ノット)であった 。
それらの開発に先立つ’36年の秋にはディーゼルの騒音の影響や追い回された際に鯨が発揮し得る最大速度を確認するため,捕鯨関係会社と農林省水産局とが海軍省の協力の下,金華山沖にディーゼル駆潜艇(艦本式22号10型内火機械:最大速力22ノット)2隻を動員して大形の鯨を追尾する実験を敢行していた。その結果,鯨の最大速度が辛うじて14ノットであり,それも30分とは続かぬこと,ディーゼルの騒音に気付かれても14ノット以上で追尾すれば問題無いことが確認されていた 。
その後,この国では少数のディーゼル・キャッチャーが建造されたものの,“石油の一滴は血の一滴”という戦時体制下,高い生産性を発揮する新技術の普及と進化は商用モーター船一般のそれ共々,抑圧されてしまう。その結果,暫し生き永らえたのが件の捕鯨船用3段膨張機関というワケである。
しかし,戦後,時代の針路は改めてディーゼル化へと回帰する。敗戦国日本においてさえ石油製品に係わる統制は1952年7月に廃止されていた。重油とディーゼルさえあればキャッチャー・ボート用動力装置として従来,主役をなした鈍重・低効率なレシプロ蒸気機関や脇役を務めて来たパワーはあっても燃費劣悪の蒸気タービンなど早晩,お払い箱になったのは当然であり,やがては過給ディーゼルが目覚ましい発展を遂げ,最大速度19ノットに達するものも登場した。世界のキャッチャー・ボートもディーゼル・キャッチャーへと帰一した。下の写真は南緯40°を越えた辺りの暴風圏を征くディーゼル・キャッチャーの雄姿である。

竹田「捕鯨」,より。

次の写真は鯨を追い詰めたディーゼル・キャッチャーから日本独特の平頭銛が発射された瞬間。

同上,より。

100日余りの漁期が終る3月は結氷期となり,キャッチャーも“氷の華”に覆われた。

同上,より。

日本の捕鯨の行方
日本が,とりわけ今はなき新潟鐵工所(IHIの支援を受け,新潟原動機として再建・子会社化)が世界の魁を演じて拓いたディーゼル・キャッチャー時代ではあるが,今やその生産性,その挙動の積極性,暴力性が世界的に憎悪の対象になっているらしく,商業捕鯨は生存捕鯨と峻別され,捕鯨国の旗色は甚だ悪くなっている。
その挙句,2018年,日本はIWCから脱退した。多くの国々を敵に回し国際的孤立を選んでまで商業捕鯨の実施に固執すべき理由など無かろう。調査捕鯨と称して資源調査のために捕獲する,つまり殺すという所作が不可欠であったようにも信じられぬ。
また,私自身,給食に出て来たゴムのような物体はもとより,晩ご飯に登場した「おでん」の“ころ”や鯨のステーキ,“尾の身”の刺身の類も特別に旨いと思った覚えは無い。
それでも,この先,食糧不足で昆虫やその幼虫を食わされるようになるなどと聞かされると,「そんなモンより鯨の方がうんと上等やろ!」と居直ってしまう。
子孫に食わせる蛋白源として積極的にバッタや芋虫を加えるのも確かに一案なのではあろうが,時には鯨も食べられるようにしておいてやる方が感謝されるのではないか? そのために,今,講じ得る手立てについて知恵を出し合っておく方が良いのではないか? 皮肉になるのかどうか,タイトルに掲げた歌の題名は「鉾(ほこ)をおさめて」であった。