冗談が定説に

―― モーツァルト書簡の解釈を巡るピアノ技術史のお粗末譚 ――

 膠の最大の欠点は耐水性の欠如にある。ここでピアノ技術史に係わる一つの笑えない挿話を紹介しよう。EhrlichやGood,渡邊順(よし)生(お)らの書物はピアノ技術史に関心を引かれる向きには必読の文献であり,とりわけ後者などは図版が豊富で“読む博物館”の名に恥じない力作である[1]

私たち自身はチェンバロ自体にもフォルテピアノ自体にもほとんど興味はない。こういうモノしか無かった世界の住人を気の毒に思う反面,原理主義者の尊ぶ楽器=手段による制約を超えて近代ピアノの時代に受け継がれ深められているという現実からバッハ鍵盤曲の音楽的深みを思い知り,翻っては近代ピアノ固有のモノとして備わっている音域とダイナミックレンジとを弄んでいるに過ぎない現代クラシックの将来を儚(はかな)むだけの者である。そんな私たちでも,ここに挙げた著者たちの博覧強記ぶりと出典を明記し,後進を導く姿勢には畏敬の念を禁じ得ない。

但し,モーツァルトがその余りの“メカオンチ”ぶりに業を煮やしたフォルテピアノ製作者,J.A.Steinにあしらわれ,デタラメを吹き込まれたと思しき,

彼(シュタイン)はクラヴィーアの響板を仕上げると,それを大気,雨,雪,太陽の光にさらし,あらゆる魔物にさらしてみて,板に割れ目を作り……割れ目ができるとくさび形の木片をはめこんで,にかわで接合します(モーツァルトから父あての1777年10月17日付の手紙。渡邊547頁,cf. Good, p.83)。

という件(くだり)にEhrlichのようにモーツァルトが最高の“traditional process”を記述したとか(pp.15~16, 32),Goodのように“モーツァルトが楽器のメカニズムに通暁していた”とか(p.84),“彼が工房における職人の働き振りを活写した”(do.)とか,“シュタインが響板の矯正に自然力を用いた”(p.85),などというバカ丸出しの講釈を加えられてしまっては興醒めの極みである。

また,この件について渡邊が「とてもまともに受け取ることはできない」「まったく信ずるに値しない」(583頁)と判定してくれたのは誠に幸いではあるが,その根拠たるや全く頂けぬ。渡邊は「水に濡らせば,薄くて敏感な響板材は変形してしまうし,云々」(同)と述べ,結局,“そんな面倒なことをした筈がない”と判定していのである。

渡邊が挙げている諸理由は膠の性質に関する彼の理解がEhrlichやGoodのそれとさして変らぬことを教えてくれる。実際には変形するどころか水濡れなどさせたら膠で接合された響板など速やかに分解してしまうだけである 名工シュタインの冗談(おちょくり)は天才芸術家の鵜呑みを経て2世紀半近く伝承・拡散され続けて来た。実に息の長い思い違いではあるが,こんな有様ではピアノ技術史が聞いて呆れる次第である。

ちなみに,上に引用したモーツァルトの手紙は目ぼしい処を拾っただけても,1879年にBrinsmead,1898年にBie,1954年にはLoesserによってそれぞれの著書に引用されて来た前歴を有している。然しながら,不可解極まることに,誰一人として手紙の記述と膠の性質との不整合について言及してはいない[2]

膠の欠点である耐水性の不足は,膠で結合された部品が年月を経ても蒸気加熱・加湿により容易に分解可能であるという意味で,リビルダーにとっては有難い性質ともなる。

それにつけても,今日,資源リサイクル問題に絡んで「解体性接着剤」なるものが開発されつつあると聞くと「何を今更」の思い無しとしない。この接着剤は成分中に熱膨張剤を含み,解体時には加熱により接着層ないし界面の膨張・破壊を図る仕掛けである。

膠で接合された楽器など,とうの昔から蒸気加熱・加湿により,粛々と解体修理されている。だからもっと膠を使うべし,などと言ったりはせぬが,人智は無限とは言い条,多くの人々はこの間,誤解と忘却の深い罪を犯して来たのではなかったであろうか?[3]

 

[1] cf., Cyril Ehrlich, The Piano  A History. 1976, revised ed. Oxford 1990, M., Good, Giraffes, Black Dragons, and Other Pianos  A Technological History from Cristofori to the Modern Concert Grand. 1982, 2nd. ed. Stanford, 2001, 渡邊順生『チェンバロ・フォルテピアノ』東京書籍,2000年.

[2] cf, Edgar Brinsmead,The History of the Pianoforte. London, 1879. reprint. p.115,  Oscar Bie, A History of the PIANOFORTE and PIANOFORTE PLAYERS. [translated and revised from his Das Klavier und seine Meister. [1898] by E.,E.,Kellett and E.,W.,Naylor《1899, reprinted in 1966》] pp.135~13, Arthur Loesser, Men, Women and Pianos. 1954[reprinted in 1982, 1990] p.100.

膠の使い方,解体性を含め,楽器製造用接着剤としての優れた特性については辻 宏『オルガンは歌う 歴史的建造法を求めて』(日本キリスト教団出版局,2007年)35,36~38,39,43,108,110,114~115頁,が是非,参照されるべきである。

[3] 近代ピアノに係わるマトモな技術史については我々の「近代ピアノ技術史における進歩と劣化の200年――Vintage Steinwayの世界――」http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-59.pdf , 「スタインウェイ・ピアノにおける発音特性と整調規準の推移」http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-65.pdf ,をご参照頂きたい。