母さんの歌,雑考

――“藁打ち仕事”と“せめてラジオ聞かせたい”――

窪田 聡(1935~)の作詞作曲による童謡,「かあさんの歌」は1956(8?)年に発表された。この歌は既に高度成長に火が点いていた頃,世に出された作品であり,そこに謳われている情景は疎開を含む作者の体験とイマジネーションとを織り交ぜた創作であると伝えられている。それゆえ,この歌詞に係わる正確な年代考証を試みることは所詮,不可能かつ無意味な所作となる。それでも,その二番の歌詞をネタに今更ながらではあるが,小さな話題提供と詮索を試みてみたい。

“藁打ち仕事”余聞
先ず,二番の歌詞に顔を出す藁(わら)打(う)ち仕事に多少なりとも係わる,但し,些か余談めいた個人的昔話から語っておこう。そもそも,稲藁は結束用の荒縄や米俵,炭俵の材料,屋根葺き材,履物(はきもの)材料などとしてこの国では古来,愛用されて来た。明治末期より農村では製(せい)縄(じょう)機(き)と称する縄をなう機械の使用が開始されてもいた。藁打ち仕事は藁製品製造の上流工程であり,農家での手仕事としての藁打ち仕事は戦後まで継承されていた。
上に述べた履物とは勿論,草鞋(わらじ)や草(ぞう)履(り)を指す。1920(大正9)年,私の母,フサヱは大阪府豊能郡豊中町(現・大阪府豊中市)の克明第二(→桜塚)小学校に第二期生として入学した。藁(わら)草履(ぞうり)にまつわる茶番劇が演じられたのはこの時である。

新入生クラスの担任は萱野村(現・大阪府箕面市萱野)からやって来る先生であった,萱野村は忠臣蔵の登場人物,萱野三平の生地で,当時は豊中よりは二枚ぐらい格上(?)の田舎であった。田舎者である上に旧弊なこの先生様は新入児童とまみえるや否や,「子供がゴム底のズック靴など履くとは贅沢である。明日以降は藁草履を履いて登校するように」と厳命なされた。

日常履きとしての藁草履は当時,街中ではほぼ過去のものとなっていた。しかし,滑り易い足許でもグリップが利くため,作業用などになお実用されることはあった。従って,その調達自体は容易であったらしい。
ところが,藁草履初日の終業後,教室の床は藁屑(わらくず)だらけとなっていた。これをホウキとチリトリで掃除するワケであるが,細かい藁(わら)埃(ぼこり)は舞い上がるばかりであったから,一年坊主たちはその始末に四苦八苦させられた。流石の守旧派先生もこの惨状を観せつけられてはアッサリと兜を脱がざるを得ず,藁草履の令は旬日を経ずして撤回に至った。以上は北摂の40万衛星都市,豊中が未だのどかな田舎町であった大正中期の挿話である。

“せめてラジオ聞かせたい”……日本人の暮らしとラジオ
日本人とラジオ放送との邂逅時期は当然ながら伝統作業である藁打ち仕事などよりもずっとハッキリしている。即ち,社団法人東京放送局(JOAK)は1925年3月に試験放送を開始,同大阪放送局(JOBK)は6月,同名古屋放送局(JOCK)は7月にそれぞれ放送を開始した。つまり,日本人とラジオ放送との出会いは1925年に遡る。翌’26年,これら3つの放送局は統合し日本放送協会となる。即ち,NHKの誕生である。

やがてこの公共ラジオ放送は政府の公報機関として全国津々浦々まで聴取可能なインフラへと整備されて行く。従って,そのコンテンツには天気予報のような情報や様々なニュース,娯楽,教養のみならず,戦争に係わる軍部からの公報,とりわけ悪名高い大本営発表の拡散などが含まれており,対米英開戦のニュースや玉音放送を国民にリアルタイムで伝え続けたのは勿論,NHKのラジオ放送であった。

ラジオ受信の許可書と諸費用,ラジオの普及
元々,ラジオと言えば電源不要,構造単純,しかし,パワーは乏しく,ロッシェル塩の圧電効果を利用するクリスタル・イヤホンでしか聴くことのできない鉱石ラジオばかりであった 。
やがてパワーがあり,ダイナミック・スピーカーを駆動可能な真空管式ラジオの時代が訪れ,五球や六球,つまり真空管を5つも6つも使用するスーパー・ヘテロダイン回路方式の真空管ラジオがその王座を占めることになる。
当初,と言っても,それが何時頃まで続いたのかについては残念ながら存知せぬのであるが,民間人によるラジオ放送の聴取ないしラジオ放送受信機の設置には「聽取無線電話私設許可書」なる奇天烈な名称の書類が必要とされていた。次に掲げるのは1930(昭和5)年7月,豊中町桜塚の住人であった我が祖父,つまりフサヱの父に下付された許可書表(おもて)面の画像である。類似の画像はネット上に散見されるが,当の品はかなり早い時期に属する一枚と言えるようである。

では,これを押し戴くには一体,如何程の金子を要したのであろうか? 安太郎の家にラジオがやって来たのと同じ年,福岡市内在住者が提出したラジオ受信許可申請書類には設備費として610円,加入登記料として13円を要した事蹟が記されているという。しかも,ラジオ受信機自体が1台40~50円もしたのに加え,聴取料は月額1円もしたそうである。小学校教員の初任給50円前後,大卒銀行員の初任給70円程度という時代なればこそ,ラジオ放送の聴取は誠に物入りな所作であった。もっとも,610円という桁外れの設備費が何に由来するのかについては不明である。送受信機の低出力をカバーするためによほど大きなアンテナでも設置させられたのであろうか?
ラジオ放送受信に係わる諸費用がいつ頃までこれほど高かったのかについて,当方は承知していないが,そういつまでも普及の極端な障害となるほど高い初期費用が課せられていたとも想えない。とは言え,戦前期においてはラジオ塔と称する一種の街頭ラジオが全国の公園など公共の場所に多数,設置されていた。太田氏に拠れば,戦時色深まる1939(昭和14)年度末時点におけるラジオ普及率は未だ全世帯数の三分の一に過ぎなかったということである。

重く大きく低性能で故障も多かった真空管式ラジオ
他方,戦前戦時期を通じ,この国は“電気数学者は居るが,電気工学者は居ない”と揶揄されるような状況に悩まされ続けていた。高尚な理論はひねくられていても,それを具体化するに足る技術が伴っていなかったワケである。この国の電気技術の底はなお浅く,電機技術一般は戦前・戦時期日本の近代技術体系の最も弱き環の一つをなしていた。
時代を遡るほど工程の管理水準が低かったため,国産真空管はその物理特性た寿命に大きな個体差(バラツキ)を託っていた。戦後でもわが理系教授たちの中には学生に実験と称して真空管1個1個の特性データ・サンプリングを課し,素性の良い物を選別させた上,それらだけを自らの実験に使用するという狡猾にして涙ぐましい手口に訴える者があったやに聞く。
もっとも,出来の良い個体であっても,この素子は本質的に振動に弱いばかりか,静穏な環境下で使用されていても赤熱するフィラメントの寿命は短く,その断線がしばしば発生した。切れたフィラメントは通電してもオレンジ色に灯(とも)らぬから故障部位の特定は素人にも容易であった。技術者や趣味人ともなれば切れたフィラメントの足に一瞬,許容値を超える電圧をかけて断線部のギャップからスパークを発生させ,そこを溶着させてしまう技術を共有していた。もっとも,これなどは一時凌ぎの裏技であり,普通人には到底及びもつかぬ芸当であった。
切れた真空管や他の故障部品が手配出来なければラジオは無用の重い箱と化すが,それでも集積回路全盛の現代とは異なり,手仕事的な修繕の可能性が完全に喪失されてしまったワケではない。私には少年時代,木製キャビネット入りのそれを含め,複数の真空管ラジオを分解して遊んだ経験がある。プラスチック・ケースに収まった個体の中にはまだ生きているモノさえあった。死んだラジオでも勿体無くて捨てるに忍びなく,切れた真空管の手配が付けば,などと逡巡している内にトランジスタラジオの,更には真空管式テレビの時代が到来し,他所で不要化したモノまで貰い受けたりもしていたため,何台かの廃物ラジオが相次いで我が家に打ち寄せられ,子供の玩具と化す次第となったらしい。ソックリ同じことは機械式の掛け時計や置時計にも当てはまった。

野暮な想像
では,“せめてラジオ聞かせたい”という周知のフレーズはどのような歴史的位相において解釈されるべきなのであろうか? これを経済的問題一般 ―― 貧しかった日本,法外な諸費用,高価だったラジオ,という風に解釈することは一応可能であろう。しかし,その背景をラジオが純然たる贅沢品であった1930年頃に求めるとすれば,「せめて」という詞(ことば)が皆目,浮かばれぬ。そう言えば,志ん生(五代目 古今亭~)落語の夫婦喧嘩の中でおかみさんが発する啖呵に,“悔しかったら電気の球でも換えてみやがれ”というのがあった。多分,これなども電球そのものが相対的に高価であった時代の記憶と共鳴せしめられるべきフレーズであったろう。
翻って,それはテレビとの対比での「せめて」のラジオであるべきなのであろうか? 我が国におけるテレビ本放送開始は1953年である。しかし,’59年の皇太子殿下御成婚という歴史的イヴェントをせめてリアルタイムの映像で視たいという国民の願いからテレビ受像機購入件数が急増したことは真であるにせよ,’50年代を通じてテレビ受像機はかつてのラジオと同様,未だ贅沢品であった。また,’60年代,テレビが普及し終った時点で故郷に「せめてラジオ」というのも見下した発想が鼻につく上,高度成長期らいマインドでもない。してみれば,テレビとの対比における「せめて」というのもボツである。
やはり,“せめてラジオ聞かせたい”に相応しい時代は準戦時下より後,それも望むらくはキナ臭い戦時下を潜(くぐ)り抜けた復興期……それも’40年代後半であってほしい。当時は衣食住に対する需要が最も切実であったとは言え,ラジオを含むその他工業製品一般に関しても需要はあれど新品・中古品・補修部品を問わずタマ数は決定的に不足していた。その上,復興期の物情騒然たる社会情勢を度外視したところで,本質的に振動を嫌う真空管ラジオなればこそ,仮令,都会のどこかでそれが余っていたとしても,これ気易く鉄道便で故郷に……などという風には参らなかった。

更に悪いことに,復興初期には酷いインフレーションが人々の暮らしに襲いかかっていた。とりわけ,’46年の新円切替えは一般国民の貨幣資産をほぼゼロに減価させた。安太郎が“空襲で灰になってしまうよりは……”との思いから安く手放した二階建てアパート1棟の売却代金も新円切替えのお蔭でセーター二着分の毛糸代になってしまった。半強制の結果であった父母の貯金も戦時国債も一瞬にして完全な紙屑に帰した。“せめてラジオ聞かせたい”はそのような時代にこそ相応しいフレーズと言えるのではなかろうか?