善光寺縁起から想像する古代科学技術

以下の雑文は技術史学徒ならではの戯言であり曲学阿世の妄想として御笑覧頂ければもっけの幸いである。くれぐれもこれを真正の宗教哲学における解釈論の真似事などと誤解頂かぬよう御願いする。勿論,当方に仏教冒涜の意図など皆無である。また,音楽との繋がりも今回は精々,以下が一種の“口三味線”であるという点にとどまる。

1.善光寺縁起(https://www.zenkoji.jp/about/engi/)の素人的要約

インド,毘舎離国に月蓋なる貪欲な長者がおり,如是なる姫があった。ある悪疫流行の年,姫は病に倒れ,不信心の長者も愛娘救いたさに大林精舎へと参り,釈尊にお願いした。釈尊は「西方極楽世界におわす阿弥陀如来様におすがりすれば姫のみならず国中の衆生が救われる」と仰った。長者が西方に向けて香華灯明を供え専心念仏したところ阿弥陀如来様が観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿で顕現され国中の悪疫は忽ちにして治まった。

長者は霊験あらたかなる三尊仏の御姿を現世に止めんと再び釈尊におすがりした。釈尊はその願を叶えんと目連尊者を竜宮城に遣わされ,閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)を貰い受けさせた。この閻浮檀金を玉の鉢に盛って阿弥陀如来様の御来臨を請うと彼の三尊仏は忽然として顕現なされた。阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫(びゃくごう)の光明と釈尊の白毫の光明とが閻浮檀金を照らすや閻浮檀金は変じて三尊仏の御姿となった(1)。長者は歓び終生この仏に奉仕し,この三尊仏はインドで多くの人々を救い結縁なされた。

時は流れ百済国は聖明王の治世となっていた。自らが月蓋長者の生れ変わりであるとも知らず悪行を重ねていた聖明王は如来様より過去の因縁を教えられるや改心し,善政へと転じた。百済国での教化の後,如来様は次なる教化の地が日本であるとお告げになった。

欽明天皇十三年(552年),尊像は日本にお渡りになった。宮中では聖明王から献ぜられた尊像を信奉すべきか否かの議が行われ,大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ)は生身の如来様である尊像を信受すべき旨奏上,大(おおむらじ)物部尾輿(もののべのこし),中臣鎌子(なかとみのかまこ)は異国の蕃神として退けるべきと主張した。

天皇は稲目にこの尊像をお預けになった。稲目は我が家に如来様をお移しし,やがて向原の家を寺に改めて安置,毎日奉仕した。これが本邦仏教寺院の嚆矢,向原寺である。

しかし,時恰も国内では熱病が流行,尾輿は天皇に「かかる禍は蘇我氏が蕃神を信奉したせいである」と上申,御許しを得て向原寺に火を放つ。かくて向原寺は灰燼に帰したが,如来様の尊容は全く損われなかった(2)。そこで尾輿は如来様を炉に投じ鞴(ふいご)で吹いて熔解させんとするも尊像はやはり傷つかず(3),止む無く彼等は尊像を難波の堀江に投じた。

後年,稲目の子・馬子は父の志を継いで篤く仏法を信仰,反対者である尾輿の子・守屋を滅ぼし,聖徳太子と共に仏教を奨励した。太子が堀江に臨み尊像の御出現を祈念されると如来様は水面に浮上され「今暫くはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待つ。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す」と仰り,再びお隠れになった。

恰も,信濃の国に本田善光(よしみつ)なる者があった。都に参った折,善光が堀江を通ったところ,「善光,善光」との御声が聞こえ,水中より燦然と輝く尊像が出現した。如来様は善光が過去世にインドでは月蓋長者として,百済では聖明王として如来様にお仕えしていたこと,この国でも多くの衆生を救うため善光とともに東国へお下りになることをお告げになった。

善光は歓喜礼拝し,如来様を背負って帰郷した。善光は貧しく灯明の油にも事欠いていたが,如来様が白毫より光明を放たれるや油の無い灯芯に火が灯り,現在まで続く御三燈の灯火が生れた。如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり,時の皇極帝は善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ,伽藍造営の勅許を発せられた。かくて三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し,開山・善光の名を寺号とする「善光寺」が造営された。

2.強調部(1)(3)についての注記

以上の記述の中から強調部(1)~(3)に注目すれば,以下のようなことが言えよう。

(1) 白毫とは仏の眉間にあって光を放つ毛だそうである。仏像にはそこに珠玉が嵌め込まれているので良く目立つ。伝承に観る白毫の機能たるやまさにレーザー・ガンなみであるが,そこに含意された古代科学技術上の真理は別のところにあると筆者は一人合点している。

(2) 閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)という想像上の金属が持つ極めて高い融点が暗示されている。閻浮檀金をプラチナに比定する解釈も見受けられるが,純Ptならばその融点は1764℃にも達する。また,その硬度や強度は低く,引っ掻けば傷つくし叩けば変形する。合金化してもプラチナの機械的強度や硬度は高が知れている。

(3) 炉や鞴という言葉から高温を得るために燃料の完全燃焼が図られたこと,それでもなお,閻浮檀金を溶解するには温度不足を来していた状況が描かれている。

3.金属の融点と炭素

神話や伝承には往々にして客観的事実や科学的真理が込められているものである。下線部(1)~(3)を通じて合理的に想像し得ることは金属やその錯塩の溶融や流動に係わる一般的性質,即ち,(3)に謂うような酸素リッチ状態で完全燃焼させた場合の高温酸化炎では溶融しない金属や錯塩でも,不完全燃焼させ炭素リッチな状態となった還元炎をこれに作用させればヨリ低い温度で溶融し流動するという特性が古代インドでは経験的に知られていたのみならず,実用されてもいたらしき状況である。

純鉄Feの融点は1530℃で,今日の高炉の中の最高温度は2000℃程度である。もっとも,熱風送風によってコークスを不完全燃焼させて得られるこの高温は熱風送入箇所である高炉下部,羽口付近のそれであり,この熱はそこでは高温のCOガスを発生させるのに用いられる。これに対して,鉄鉱石中の酸化鉄(Fe2O3[赤鉄鉱],Fe3O4[磁鉄鉱])が還元され溶銑になって滴り落ちる高炉上部,還元帯の温度は1200℃程度に過ぎない。この温度で鉄が溶融するのは還元剤であるコークスの炭素が鉄の融点を下げるとともに,その流動性を増してくれるからである。同じ現象は鋳鉄の溶解に用いられていた小形の高炉,キュポラ(溶銑炉)の内部でも起っている[1]

コバルトを60%前後,クロームを30%前後含む耐摩耗性・耐熱性合金ステライトの融点は1300℃近いが,これも両大戦間期以降,酸素・アセチレンの還元炎を用いる手作業によって1090℃付近にて溶融せしめられ,航空発動機排気弁の強化に用立てられていた[2]

小川清二『航空發動機工學』改訂版、河出書房,1944年,145頁、第106図。

4.吹管と吹管分析

ステライティングにおけるアセチレン・トーチの役割を古くから――科学的実験の記録としては1670年から――担って来た装置,それが吹管である。吹管とは“”状の管で,その一端を炎の外部ないし内部に位置させ,他端から呼気を吹き込むことによって所要の方向にピンポイントで酸化炎や還元炎を導く簡単な道具である。吹管によって導かれる炎を吹管炎と総称する。

 三省堂 『新国語中辞典』1967年,吹管の項,挿図。

吹管分析は個体の試料を吹管炎……酸化炎または還元炎で高熱し,そこに生じた化学反応から試料の成分を定性ないし対象によっては定量的に分析する試験法である。炎源は選ばず,ガスバーナ,アルコールランプ,ロウソク,マッチなどの炎が用いられる。試料は白金をチップしたピンセットや白金の針金で支持・加熱されてその炎色反応を,あるいは上図のように木炭などに穿たれた穴の中やガラス管(閉管,開管)内で加熱されてその発光状況や燃焼生成物の臭気・色・磁性などを観察され,その特定成分の含有状況が突き止められる[3]

5.還元的雰囲気の下における高融点金属の溶解

酸化炎では溶解し得ない金属も還元炎を以てすれば溶解し得る。吹管を用いて同じ金属試料に酸化炎と還元炎とを作用させてみれば,この命題を発見することなど誠に容易であったろう。想うに,阿弥陀如来と釈尊の白毫から放たれた光という表現は複数の吹管を同時に発動させる,つまり複数の還元炎を放射する所作に因る一種の坩堝(るつぼ)溶解法の古代インドにおける実用を示唆していたのではなかろうか? また,この坩堝自体が鋳造用の砂型を兼ねるような場合もあったのではなかろうか?

[1] 作井誠太編『100万人の金属学』第2版,アグネ,1976年,1および9章,石野 亨『キュポラ』新日本鋳鍛造協会,1985年,第2章,参照。炭素を含有する鋼(C:0.04~ 1.7%)や鋳鉄(C:1.7~4.5%)の融点は炭素含有率に応じて純鉄のそれより低くなり,鋼なら1400℃程度にまで,鋳鉄なら1200℃程度にまで下る。

[2] 東 彌三・三枝 定・永井 博・三木吉平『發動機工作法』共立社,内燃機關工學講座 第7巻,1936年,108~110頁,小川清二『航空發動機工學』改訂版,河出書房,1944年,145~146頁,参照。ステライトならびにステライティングについては拙著『三菱航空発動機技術史』下巻にて詳しく紹介しておいた。

[3] 平凡社『世界大百科事典』1966年,「吹管分析」の項,参照。使用範囲の縮小を反映してか,’88年の第2版における当該項目の記述は大幅に粗略化されている。