善光寺縁起から想像する古代科学技術

以下の雑文は技術史学徒ならではの戯言であり曲学阿世の妄想として御笑覧頂ければもっけの幸いである。くれぐれもこれを真正の宗教哲学における解釈論の真似事などと誤解頂かぬよう御願いする。勿論,当方に仏教冒涜の意図など皆無である。また,音楽との繋がりも今回は精々,以下が一種の“口三味線”であるという点にとどまる。

1.善光寺縁起(https://www.zenkoji.jp/about/engi/)の素人的要約

インド,毘舎離国に月蓋なる貪欲な長者がおり,如是なる姫があった。ある悪疫流行の年,姫は病に倒れ,不信心の長者も愛娘救いたさに大林精舎へと参り,釈尊にお願いした。釈尊は「西方極楽世界におわす阿弥陀如来様におすがりすれば姫のみならず国中の衆生が救われる」と仰った。長者が西方に向けて香華灯明を供え専心念仏したところ阿弥陀如来様が観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿で顕現され国中の悪疫は忽ちにして治まった。

長者は霊験あらたかなる三尊仏の御姿を現世に止めんと再び釈尊におすがりした。釈尊はその願を叶えんと目連尊者を竜宮城に遣わされ,閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)を貰い受けさせた。この閻浮檀金を玉の鉢に盛って阿弥陀如来様の御来臨を請うと彼の三尊仏は忽然として顕現なされた。阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫(びゃくごう)の光明と釈尊の白毫の光明とが閻浮檀金を照らすや閻浮檀金は変じて三尊仏の御姿となった(1)。長者は歓び終生この仏に奉仕し,この三尊仏はインドで多くの人々を救い結縁なされた。

時は流れ百済国は聖明王の治世となっていた。自らが月蓋長者の生れ変わりであるとも知らず悪行を重ねていた聖明王は如来様より過去の因縁を教えられるや改心し,善政へと転じた。百済国での教化の後,如来様は次なる教化の地が日本であるとお告げになった。

欽明天皇十三年(552年),尊像は日本にお渡りになった。宮中では聖明王から献ぜられた尊像を信奉すべきか否かの議が行われ,大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ)は生身の如来様である尊像を信受すべき旨奏上,大(おおむらじ)物部尾輿(もののべのこし),中臣鎌子(なかとみのかまこ)は異国の蕃神として退けるべきと主張した。

天皇は稲目にこの尊像をお預けになった。稲目は我が家に如来様をお移しし,やがて向原の家を寺に改めて安置,毎日奉仕した。これが本邦仏教寺院の嚆矢,向原寺である。

しかし,時恰も国内では熱病が流行,尾輿は天皇に「かかる禍は蘇我氏が蕃神を信奉したせいである」と上申,御許しを得て向原寺に火を放つ。かくて向原寺は灰燼に帰したが,如来様の尊容は全く損われなかった(2)。そこで尾輿は如来様を炉に投じ鞴(ふいご)で吹いて熔解させんとするも尊像はやはり傷つかず(3),止む無く彼等は尊像を難波の堀江に投じた。

後年,稲目の子・馬子は父の志を継いで篤く仏法を信仰,反対者である尾輿の子・守屋を滅ぼし,聖徳太子と共に仏教を奨励した。太子が堀江に臨み尊像の御出現を祈念されると如来様は水面に浮上され「今暫くはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待つ。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す」と仰り,再びお隠れになった。

恰も,信濃の国に本田善光(よしみつ)なる者があった。都に参った折,善光が堀江を通ったところ,「善光,善光」との御声が聞こえ,水中より燦然と輝く尊像が出現した。如来様は善光が過去世にインドでは月蓋長者として,百済では聖明王として如来様にお仕えしていたこと,この国でも多くの衆生を救うため善光とともに東国へお下りになることをお告げになった。

善光は歓喜礼拝し,如来様を背負って帰郷した。善光は貧しく灯明の油にも事欠いていたが,如来様が白毫より光明を放たれるや油の無い灯芯に火が灯り,現在まで続く御三燈の灯火が生れた。如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり,時の皇極帝は善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ,伽藍造営の勅許を発せられた。かくて三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し,開山・善光の名を寺号とする「善光寺」が造営された。

2.強調部(1)(3)についての注記

以上の記述の中から強調部(1)~(3)に注目すれば,以下のようなことが言えよう。

(1) 白毫とは仏の眉間にあって光を放つ毛だそうである。仏像にはそこに珠玉が嵌め込まれているので良く目立つ。伝承に観る白毫の機能たるやまさにレーザー・ガンなみであるが,そこに含意された古代科学技術上の真理は別のところにあると筆者は一人合点している。

(2) 閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)という想像上の金属が持つ極めて高い融点が暗示されている。閻浮檀金をプラチナに比定する解釈も見受けられるが,純Ptならばその融点は1764℃にも達する。また,その硬度や強度は低く,引っ掻けば傷つくし叩けば変形する。合金化してもプラチナの機械的強度や硬度は高が知れている。

(3) 炉や鞴という言葉から高温を得るために燃料の完全燃焼が図られたこと,それでもなお,閻浮檀金を溶解するには温度不足を来していた状況が描かれている。

3.金属の融点と炭素

神話や伝承には往々にして客観的事実や科学的真理が込められているものである。下線部(1)~(3)を通じて合理的に想像し得ることは金属やその錯塩の溶融や流動に係わる一般的性質,即ち,(3)に謂うような酸素リッチ状態で完全燃焼させた場合の高温酸化炎では溶融しない金属や錯塩でも,不完全燃焼させ炭素リッチな状態となった還元炎をこれに作用させればヨリ低い温度で溶融し流動するという特性が古代インドでは経験的に知られていたのみならず,実用されてもいたらしき状況である。

純鉄Feの融点は1530℃で,今日の高炉の中の最高温度は2000℃程度である。もっとも,熱風送風によってコークスを不完全燃焼させて得られるこの高温は熱風送入箇所である高炉下部,羽口付近のそれであり,この熱はそこでは高温のCOガスを発生させるのに用いられる。これに対して,鉄鉱石中の酸化鉄(Fe2O3[赤鉄鉱],Fe3O4[磁鉄鉱])が還元され溶銑になって滴り落ちる高炉上部,還元帯の温度は1200℃程度に過ぎない。この温度で鉄が溶融するのは還元剤であるコークスの炭素が鉄の融点を下げるとともに,その流動性を増してくれるからである。同じ現象は鋳鉄の溶解に用いられていた小形の高炉,キュポラ(溶銑炉)の内部でも起っている[1]

コバルトを60%前後,クロームを30%前後含む耐摩耗性・耐熱性合金ステライトの融点は1300℃近いが,これも両大戦間期以降,酸素・アセチレンの還元炎を用いる手作業によって1090℃付近にて溶融せしめられ,航空発動機排気弁の強化に用立てられていた[2]

小川清二『航空發動機工學』改訂版、河出書房,1944年,145頁、第106図。

4.吹管と吹管分析

ステライティングにおけるアセチレン・トーチの役割を古くから――科学的実験の記録としては1670年から――担って来た装置,それが吹管である。吹管とは“”状の管で,その一端を炎の外部ないし内部に位置させ,他端から呼気を吹き込むことによって所要の方向にピンポイントで酸化炎や還元炎を導く簡単な道具である。吹管によって導かれる炎を吹管炎と総称する。

 三省堂 『新国語中辞典』1967年,吹管の項,挿図。

吹管分析は個体の試料を吹管炎……酸化炎または還元炎で高熱し,そこに生じた化学反応から試料の成分を定性ないし対象によっては定量的に分析する試験法である。炎源は選ばず,ガスバーナ,アルコールランプ,ロウソク,マッチなどの炎が用いられる。試料は白金をチップしたピンセットや白金の針金で支持・加熱されてその炎色反応を,あるいは上図のように木炭などに穿たれた穴の中やガラス管(閉管,開管)内で加熱されてその発光状況や燃焼生成物の臭気・色・磁性などを観察され,その特定成分の含有状況が突き止められる[3]

5.還元的雰囲気の下における高融点金属の溶解

酸化炎では溶解し得ない金属も還元炎を以てすれば溶解し得る。吹管を用いて同じ金属試料に酸化炎と還元炎とを作用させてみれば,この命題を発見することなど誠に容易であったろう。想うに,阿弥陀如来と釈尊の白毫から放たれた光という表現は複数の吹管を同時に発動させる,つまり複数の還元炎を放射する所作に因る一種の坩堝(るつぼ)溶解法の古代インドにおける実用を示唆していたのではなかろうか? また,この坩堝自体が鋳造用の砂型を兼ねるような場合もあったのではなかろうか?

[1] 作井誠太編『100万人の金属学』第2版,アグネ,1976年,1および9章,石野 亨『キュポラ』新日本鋳鍛造協会,1985年,第2章,参照。炭素を含有する鋼(C:0.04~ 1.7%)や鋳鉄(C:1.7~4.5%)の融点は炭素含有率に応じて純鉄のそれより低くなり,鋼なら1400℃程度にまで,鋳鉄なら1200℃程度にまで下る。

[2] 東 彌三・三枝 定・永井 博・三木吉平『發動機工作法』共立社,内燃機關工學講座 第7巻,1936年,108~110頁,小川清二『航空發動機工學』改訂版,河出書房,1944年,145~146頁,参照。ステライトならびにステライティングについては拙著『三菱航空発動機技術史』下巻にて詳しく紹介しておいた。

[3] 平凡社『世界大百科事典』1966年,「吹管分析」の項,参照。使用範囲の縮小を反映してか,’88年の第2版における当該項目の記述は大幅に粗略化されている。

音楽と蒸気タービンの翼車振動測定

日本海軍における蒸気タービン設計技術の進歩は翼車振動への関心の高まりという形で始った。そして翼車の固有振動数が測定され,その結果が或る程度設計に反映されるようになる。妙高型一万トン級巡洋艦の計画当時は世界的に翼車振動への関心が高まっていたが,その端緒は陸用大型タービンにおける翼車バースト(飛散)事故を経験したGeneral Electric Companyの著名な技術者W., Campbelが1924年に発表した記念碑的論考にあった[1]

翼車振動には①:ディスク全体が軸方向にペコペコ振動し波紋を描くような振動,と,②:ディスク周縁部が円周方向に波打つ振動とに類別される。振動する物体にあって振動しない部分を節,最大振幅点を腹と呼ぶが,①において節は円となる。この節円(ノーダル・サークル)が1個である最も単純なペコペコ振動はパラボリックないしアンブレラ振動と呼ばれる。節円が複数あれば,それらは勿論,同心円となる。②の場合,節は直線を呈し,具体的には節直径(ノーダル・ダイヤ)となる。舶用蒸気タービンは事業発電用のそれに比して著しく小さく,ディスクの剛性も高く設計されるため,問題になるのは主として後者である。これを節直径3つを有する振動を例にとって視覚化したのが朝永研一郎の書から採った次図(平面図と円周の直線展開図)である[2]

 節直径3個を有する翼車の振動

朝永研一郎『熱力學・蒸汽タービン』日刊工業新聞社,改訂版,1956年,165頁,第72図。

 

翼車固有振動数の測定に関して『帝國海軍機關史』は:

元来コレ等ノ運動体ハ何レモ其ノ大サ形状等ニヨリ材質固有ノ自然震動ヲ有スルモノニシテ偶外部ヨリヂスターバンスガ其ノ自然震動数ト周期ヲ同フスル場合ニハ同調シテ運動体ノ震動ノ振幅ハ著シク大トナリ其ノ結果物体ハ破壊スルニ至ル従来ノ翼故障ノ多クハ其ノ断面組織極メテ密ニシテ断面収縮ナキ状態ヲ呈シ居リコレ等ハ何レモ震動ニ起因シテ切断セルモノニシテ震動ニ依ル翼ノ欠損ヲ生ゼシメザル為ニハ先ヅ以テ翼車ノ計画ヲ吟味スル必要アリ即翼車ニハ充分ノスチフネスヲ有セシムルコト重要条件トナレリ

数年前迄ハ震動ニ対シテハ多ク注意ヲ払ハザリシガ昭和初頭ノ頃ヨリ翼車計画ニ際シテハ是ガ自然震動数ノ計測ハ欠クベカラザルモノトセラルルニ至レリ[3]

と述べているが,日本海軍の艦本式タービンの定礎者にして最後の艦政本部長を務めた渋谷隆太郎は翼車固有振動数の測定についてヨリ詳しく,次のように述べている[4]

   ……翼車の振動数を測定する方法として色々の案が考えられた。旧海軍横須賀工廠では海兵団の楽隊長に依頼して楽譜から振動数を推定した。旧舞鶴海軍工廠では特殊の弦を作り,それに共鳴せしめ計算から振動数を出すことを考えた。所が其の後スイスから帰朝した石川島造船所の行員神野(信一)氏がエツシヤーウイス社では電磁的に翼車振動数を測定して居たと云う話をしたことにヒントを得て,旧横須賀工廠長浦造兵部に依頼し,電磁的に翼車振動数の測定法を考案したことに端を発し,各工廠に於て電磁的に翼車振動数の測定が行われるようになったのである【強調引用者】[5]

つまり最初は軍楽隊隊員の絶対音感による音楽的評価法,次に弦を共鳴させてこの弦の振動数を計算にて求めるという音響学的方法,水平に置いた翼車に電磁的方法によって様々な周波数の振動を与えて行き,その上に撒かれた砂の集散を見て共鳴点と振動パターンを見出す方法が用いられたワケである。前図上の平面図にはこの砂の分布が表現されており,砂は腹の周辺部から追われ,節の周辺部へと寄せ集められている。

音楽は振動に係わる最も古い芸術であると共に古典古代においては物理学の一分野をなしていた。翼車振動というタービン工学の要諦に係わる解明手段として音楽家の能力や音楽的アプローチが動員されたことは対象の本性に鑑みれば蓋し,当然の流れと言えよう。

もっとも,渋谷によれば,当時の日本海軍技術者による翼車振動研究にはパーソンズ・タービンの胴車部に動翼折損事故があまり発生していなかった事実に引き摺られ,衝動タービンにおける翼車振動を過剰に意識させられる彼らの姿が投影されていた。果せるかな,そのような海軍技術者たちは後年,第二世代艦本式タービンの翼車ではなく,翼車周縁に植込まれた動翼の円周方向2節振動なる現象に足許を掬(すく)われることとなる。これが所謂,臨機調問題の核心であるが,流石にこの辺りの問題は音楽家や機械屋ではなく,物理屋によってのみ解明されるべきモノとなっていた[6]

タービン動翼の基本的振動パターン

朝永同上書,167頁,第74図,(Ⅰ)。

[1] cf., The Protection of Steam-Turbine Disk Wheels from Axial Vibration(G.E. Review, 1924, Transactions of the A.S.M.E. Vol.46, 1924.『機械學會誌』第29巻92号[1924-12]に抄録あり).

[2] 朝永研一郎(1892~’51)は東京帝国大学→海軍(~造機少将)→東京帝大教授→公職追放の後,千葉工業大学,法政大学教授。この書物は「主として旧海軍における経験実績に基づいて記述」されたもので,「序」には海軍の先達,牛丸福作(1882~1956),渋谷隆太郎への謝辞が見られる。本書は生産技術協会が刊行した『舶用蒸気タービン設計法』,『蒸気タービン工作標準』,『旧海軍艦艇蒸気タービン故障記録』,『舶用機関取扱法』等のダイジェスト的内容を有している。

[3] 本書は原著出版年不明、海軍省軍務局編と言われる機密資料。原書房復刻版(上下+別冊) 1975年。引用箇所は下巻594、599頁。

[4] 渋谷隆太郎(1887~1973)は(横須賀)海軍機關學校,海軍工機學校,海軍大學に学び,艦政本部第五部部員を振り出しとして横須賀,舞鶴,呉,廣工廠勤務や海軍大學・海軍機關學校教官(兼担)、海軍技術研究所理學研究部長といったキャリアを交えながら艦政本部第五部にあってはタービン班長,計画主任に累進、1940年に機關中将となり,1944年11月,第27代艦政本部長の地位に就き,そのまま敗戦を迎えた。戦後は生産技術協会を組織し,海軍造機技術や本邦技術界の失敗経験を戦後産業界の共有財産とすべく尽力した。

[5] 『旧海軍技術資料 第1編(2)』107~108頁,より。

[6] 臨機調問題を含め,舶用蒸気タービン技術史については拙著『舶用蒸気タービン百年の航跡』ユニオンプレス,2002年,参照。なお,翼車振動については蒸気動力技術史一般についての拙稿「蒸気動力技術略史」(JAIRO→坂上茂樹)87頁,図4-27の辺りもご参照頂きたい。

母さんの歌,雑考

――“藁打ち仕事”と“せめてラジオ聞かせたい”――

窪田 聡(1935~)の作詞作曲による童謡,「かあさんの歌」は1956(8?)年に発表された。この歌は既に高度成長に火が点いていた頃,世に出された作品であり,そこに謳われている情景は疎開を含む作者の体験とイマジネーションとを織り交ぜた創作であると伝えられている。それゆえ,この歌詞に係わる正確な年代考証を試みることは所詮,不可能かつ無意味な所作となる。それでも,その二番の歌詞をネタに今更ながらではあるが,小さな話題提供と詮索を試みてみたい。

“藁打ち仕事”余聞
先ず,二番の歌詞に顔を出す藁(わら)打(う)ち仕事に多少なりとも係わる,但し,些か余談めいた個人的昔話から語っておこう。そもそも,稲藁は結束用の荒縄や米俵,炭俵の材料,屋根葺き材,履物(はきもの)材料などとしてこの国では古来,愛用されて来た。明治末期より農村では製(せい)縄(じょう)機(き)と称する縄をなう機械の使用が開始されてもいた。藁打ち仕事は藁製品製造の上流工程であり,農家での手仕事としての藁打ち仕事は戦後まで継承されていた。
上に述べた履物とは勿論,草鞋(わらじ)や草(ぞう)履(り)を指す。1920(大正9)年,私の母,フサヱは大阪府豊能郡豊中町(現・大阪府豊中市)の克明第二(→桜塚)小学校に第二期生として入学した。藁(わら)草履(ぞうり)にまつわる茶番劇が演じられたのはこの時である。

新入生クラスの担任は萱野村(現・大阪府箕面市萱野)からやって来る先生であった,萱野村は忠臣蔵の登場人物,萱野三平の生地で,当時は豊中よりは二枚ぐらい格上(?)の田舎であった。田舎者である上に旧弊なこの先生様は新入児童とまみえるや否や,「子供がゴム底のズック靴など履くとは贅沢である。明日以降は藁草履を履いて登校するように」と厳命なされた。

日常履きとしての藁草履は当時,街中ではほぼ過去のものとなっていた。しかし,滑り易い足許でもグリップが利くため,作業用などになお実用されることはあった。従って,その調達自体は容易であったらしい。
ところが,藁草履初日の終業後,教室の床は藁屑(わらくず)だらけとなっていた。これをホウキとチリトリで掃除するワケであるが,細かい藁(わら)埃(ぼこり)は舞い上がるばかりであったから,一年坊主たちはその始末に四苦八苦させられた。流石の守旧派先生もこの惨状を観せつけられてはアッサリと兜を脱がざるを得ず,藁草履の令は旬日を経ずして撤回に至った。以上は北摂の40万衛星都市,豊中が未だのどかな田舎町であった大正中期の挿話である。

“せめてラジオ聞かせたい”……日本人の暮らしとラジオ
日本人とラジオ放送との邂逅時期は当然ながら伝統作業である藁打ち仕事などよりもずっとハッキリしている。即ち,社団法人東京放送局(JOAK)は1925年3月に試験放送を開始,同大阪放送局(JOBK)は6月,同名古屋放送局(JOCK)は7月にそれぞれ放送を開始した。つまり,日本人とラジオ放送との出会いは1925年に遡る。翌’26年,これら3つの放送局は統合し日本放送協会となる。即ち,NHKの誕生である。

やがてこの公共ラジオ放送は政府の公報機関として全国津々浦々まで聴取可能なインフラへと整備されて行く。従って,そのコンテンツには天気予報のような情報や様々なニュース,娯楽,教養のみならず,戦争に係わる軍部からの公報,とりわけ悪名高い大本営発表の拡散などが含まれており,対米英開戦のニュースや玉音放送を国民にリアルタイムで伝え続けたのは勿論,NHKのラジオ放送であった。

ラジオ受信の許可書と諸費用,ラジオの普及
元々,ラジオと言えば電源不要,構造単純,しかし,パワーは乏しく,ロッシェル塩の圧電効果を利用するクリスタル・イヤホンでしか聴くことのできない鉱石ラジオばかりであった 。
やがてパワーがあり,ダイナミック・スピーカーを駆動可能な真空管式ラジオの時代が訪れ,五球や六球,つまり真空管を5つも6つも使用するスーパー・ヘテロダイン回路方式の真空管ラジオがその王座を占めることになる。
当初,と言っても,それが何時頃まで続いたのかについては残念ながら存知せぬのであるが,民間人によるラジオ放送の聴取ないしラジオ放送受信機の設置には「聽取無線電話私設許可書」なる奇天烈な名称の書類が必要とされていた。次に掲げるのは1930(昭和5)年7月,豊中町桜塚の住人であった我が祖父,つまりフサヱの父に下付された許可書表(おもて)面の画像である。類似の画像はネット上に散見されるが,当の品はかなり早い時期に属する一枚と言えるようである。

では,これを押し戴くには一体,如何程の金子を要したのであろうか? 安太郎の家にラジオがやって来たのと同じ年,福岡市内在住者が提出したラジオ受信許可申請書類には設備費として610円,加入登記料として13円を要した事蹟が記されているという。しかも,ラジオ受信機自体が1台40~50円もしたのに加え,聴取料は月額1円もしたそうである。小学校教員の初任給50円前後,大卒銀行員の初任給70円程度という時代なればこそ,ラジオ放送の聴取は誠に物入りな所作であった。もっとも,610円という桁外れの設備費が何に由来するのかについては不明である。送受信機の低出力をカバーするためによほど大きなアンテナでも設置させられたのであろうか?
ラジオ放送受信に係わる諸費用がいつ頃までこれほど高かったのかについて,当方は承知していないが,そういつまでも普及の極端な障害となるほど高い初期費用が課せられていたとも想えない。とは言え,戦前期においてはラジオ塔と称する一種の街頭ラジオが全国の公園など公共の場所に多数,設置されていた。太田氏に拠れば,戦時色深まる1939(昭和14)年度末時点におけるラジオ普及率は未だ全世帯数の三分の一に過ぎなかったということである。

重く大きく低性能で故障も多かった真空管式ラジオ
他方,戦前戦時期を通じ,この国は“電気数学者は居るが,電気工学者は居ない”と揶揄されるような状況に悩まされ続けていた。高尚な理論はひねくられていても,それを具体化するに足る技術が伴っていなかったワケである。この国の電気技術の底はなお浅く,電機技術一般は戦前・戦時期日本の近代技術体系の最も弱き環の一つをなしていた。
時代を遡るほど工程の管理水準が低かったため,国産真空管はその物理特性た寿命に大きな個体差(バラツキ)を託っていた。戦後でもわが理系教授たちの中には学生に実験と称して真空管1個1個の特性データ・サンプリングを課し,素性の良い物を選別させた上,それらだけを自らの実験に使用するという狡猾にして涙ぐましい手口に訴える者があったやに聞く。
もっとも,出来の良い個体であっても,この素子は本質的に振動に弱いばかりか,静穏な環境下で使用されていても赤熱するフィラメントの寿命は短く,その断線がしばしば発生した。切れたフィラメントは通電してもオレンジ色に灯(とも)らぬから故障部位の特定は素人にも容易であった。技術者や趣味人ともなれば切れたフィラメントの足に一瞬,許容値を超える電圧をかけて断線部のギャップからスパークを発生させ,そこを溶着させてしまう技術を共有していた。もっとも,これなどは一時凌ぎの裏技であり,普通人には到底及びもつかぬ芸当であった。
切れた真空管や他の故障部品が手配出来なければラジオは無用の重い箱と化すが,それでも集積回路全盛の現代とは異なり,手仕事的な修繕の可能性が完全に喪失されてしまったワケではない。私には少年時代,木製キャビネット入りのそれを含め,複数の真空管ラジオを分解して遊んだ経験がある。プラスチック・ケースに収まった個体の中にはまだ生きているモノさえあった。死んだラジオでも勿体無くて捨てるに忍びなく,切れた真空管の手配が付けば,などと逡巡している内にトランジスタラジオの,更には真空管式テレビの時代が到来し,他所で不要化したモノまで貰い受けたりもしていたため,何台かの廃物ラジオが相次いで我が家に打ち寄せられ,子供の玩具と化す次第となったらしい。ソックリ同じことは機械式の掛け時計や置時計にも当てはまった。

野暮な想像
では,“せめてラジオ聞かせたい”という周知のフレーズはどのような歴史的位相において解釈されるべきなのであろうか? これを経済的問題一般 ―― 貧しかった日本,法外な諸費用,高価だったラジオ,という風に解釈することは一応可能であろう。しかし,その背景をラジオが純然たる贅沢品であった1930年頃に求めるとすれば,「せめて」という詞(ことば)が皆目,浮かばれぬ。そう言えば,志ん生(五代目 古今亭~)落語の夫婦喧嘩の中でおかみさんが発する啖呵に,“悔しかったら電気の球でも換えてみやがれ”というのがあった。多分,これなども電球そのものが相対的に高価であった時代の記憶と共鳴せしめられるべきフレーズであったろう。
翻って,それはテレビとの対比での「せめて」のラジオであるべきなのであろうか? 我が国におけるテレビ本放送開始は1953年である。しかし,’59年の皇太子殿下御成婚という歴史的イヴェントをせめてリアルタイムの映像で視たいという国民の願いからテレビ受像機購入件数が急増したことは真であるにせよ,’50年代を通じてテレビ受像機はかつてのラジオと同様,未だ贅沢品であった。また,’60年代,テレビが普及し終った時点で故郷に「せめてラジオ」というのも見下した発想が鼻につく上,高度成長期らいマインドでもない。してみれば,テレビとの対比における「せめて」というのもボツである。
やはり,“せめてラジオ聞かせたい”に相応しい時代は準戦時下より後,それも望むらくはキナ臭い戦時下を潜(くぐ)り抜けた復興期……それも’40年代後半であってほしい。当時は衣食住に対する需要が最も切実であったとは言え,ラジオを含むその他工業製品一般に関しても需要はあれど新品・中古品・補修部品を問わずタマ数は決定的に不足していた。その上,復興期の物情騒然たる社会情勢を度外視したところで,本質的に振動を嫌う真空管ラジオなればこそ,仮令,都会のどこかでそれが余っていたとしても,これ気易く鉄道便で故郷に……などという風には参らなかった。

更に悪いことに,復興初期には酷いインフレーションが人々の暮らしに襲いかかっていた。とりわけ,’46年の新円切替えは一般国民の貨幣資産をほぼゼロに減価させた。安太郎が“空襲で灰になってしまうよりは……”との思いから安く手放した二階建てアパート1棟の売却代金も新円切替えのお蔭でセーター二着分の毛糸代になってしまった。半強制の結果であった父母の貯金も戦時国債も一瞬にして完全な紙屑に帰した。“せめてラジオ聞かせたい”はそのような時代にこそ相応しいフレーズと言えるのではなかろうか?

ロックからスミスへ

―― イギリス18世紀音楽観の民族差別的構図 ――

Arthur Loesserはその著書Men, Women and Pianos A Social History (1954)の中でイギリスにおける18世紀的音楽観の定立についての興味ある所説を展開している[1]。以下ではこれに導かれつつ,彼が論じていない経済学の父 Adam Smithの著述との係わりをそこに絡め,標記に係わる素人ならではの私論を提示してみたい。

1.John Locke教育論(1693)の中の音楽

1642年に始まったイギリス清教徒(ピューリタン)革命においては伝来の音楽が抑圧され,宮廷や教会ではお抱え音楽家のポストが廃止されたり宗教的儀式の進行役をなしていたパイプオルガンの撤去や破壊,さらには劇場の取り潰しといった所業までが繰り広げられた。もっとも,その目的は音楽一般の抑圧ではなかったから大衆的なアマチュア音楽はむしろ興隆し,ヴァイオリンやギター,各種管楽器等が市井に流行した。1660年の王政復古もイギリス音楽におけるかような潮流を妨げはしなかった。もっとも,音楽への度を過ごした傾倒はジェントルマンにとっては避けられるべきことと説諭されていた[2]

イギリス政治思想史上の巨人,John Locke(1632~1704)などは1693年の著書の中で次のような議論を展開したものである。

音楽は,いくつかの点でダンスと類似性があると考えられており,何かの楽器を上手に演奏できることは,多くの人びとに高く評価されています。しかし,普通の演奏ができるようになるだけでも,子どもにとっては貴重な時間の多くを浪費することになるし,往々にして,風変わりな人たちと交際することにもなりがちなため,子どもには音楽をやらせないのがよいと考える人も少なくありません。また,才能もあり,仕事もできるという人たちのあいだでは,音楽に秀でた腕をもっていることを推奨され,高く評価されているような人はほとんど聞かないので,いやしくも教養の一覧表に入るすべてのたしなみのうち,音楽は最後に置いてもよいのではないかと思っています。わたしたち人間の短い人生では,あらゆることがらに熟達することはできませんし,また,わたしたちの精神は,どんなときも絶えず何かの学習に没頭しているわけにもいきません。……後略……[3]

これはビジネス志向の優越,大陸的表現を用いるならプロテスタンティズム,とりわけカルヴィニズム的倫理観,職業観を宣言した文章である。当然ながら,そのメダルの裏面には音楽をイギリス人女性の趣味,子供に習い事として,あるいは外国人職業音楽家に委ねるべきとするスタンスがあった。

2Spectator紙寄稿者の書簡(1711)から

Loesserは1711年12月26日,Spectator紙に寄せられた書簡を引用している。曰く:

……芸術における音楽的サウンドなどというものは詩歌における無意味な言葉と同然のものである。それゆえ,音楽は詩歌の心性を劣化させずには措かない。音楽は常に何らかの表現すべき激情ないし感情に発し,ヴァイオリン,声ないし他のあらゆる楽器は幼児のガラガラよりマシとも言えぬほどの慰みを提供するものである[4]

ここに表明されているのは上に観たロックのそれを遥かに凌駕する音楽蔑視観である。然しながら,当時,イギリス上流社会の女性と子供が係わるべき所作――Veblenの所謂「代行的余暇」のアイテム[5]――とされた音楽に対する需要がイギリス社会において途絶えていたワケでは決してない。そして,この時代,洗練された音楽をイギリス人に向けて職業的に提供していたのはイタリア人,ドイツ人に代表される外国人である。

その端緒は17世紀から拓かれていたが,18世紀のイタリアは世界一の音楽輸出国であり,主としてヴェネチアから中央ヨーロッパへと音楽家が進出した。音楽の様式,音楽用語,音楽界の慣習に今日まで続くイタリア語,イタリア的様式が定着したのはこのためである。従前,フランスの影響が強かったドイツにおいてもイタリア的要素が摂り入れられ,融合が図られている。イギリスは大陸音楽家にとって格好の移住ないし出稼ぎ先であった[6]

イギリスでは17世紀末より外国人音楽家の雇用が盛んになっており,イタリア人歌手のロンドンでのコンサートがしきりに開催されていた。1710年以降,イタリア・オペラはロンドンに定着するが,これには作曲家Georg Friedrich Händel(1685~1759:独→伊→英)が係わっていた。彼は後にイギリスに帰化することになる。大バッハの息子Johann Christian Bach(1735~’82)がイギリス初のピアノコンサートを催したのは1768年のことであるが,彼は作曲家Carl Friedrich Abel(1723~87)とともに’65年から’81年にかけて一連のコンサートを主催している。世紀末には大作曲家Franz Joseph Haydn(1732~1809)も2後に亘って長期のイギリス・ツアーを行っている[7]

3.Philip Dormer Stanhope(4Chesterfield伯爵)の書簡(1749)から

Loesserは先の引用に続けて第4代チェスターフィールド伯爵Philip Dormer Stanhopeが当時,ヴェネチアを訪れていたその非嫡出子に当てた1749年4月19日付の手紙を紹介している。曰く:

君が今,歌唱やヴァイオリン,管楽器の演奏が共通の話題であるのみならず主要な関心事であるような音楽の国に滞在しているので,私は君が大抵のイギリス人がイタリアを旅する際,そうなるような程度にその種の愉楽(音楽は通常,リベラルアートに含められるが,私はそうは言いたくない)にふけることに対して苦言せざるを得ません。君が音楽を愛するなら,聴き手になりなさい。オペラやコンサートに出かけ,そして音楽家に支払って君のために演奏させ,自らヴァイオリンや管楽器を演奏したりせぬこと。演奏にふければジェントルマンは軽薄な卑しむべき心情にかられ,不良の仲間入りし,さもなくばヨリ善用されていたであろう時間を浪費してしまう。コンサートの一員としてあごの下にヴァイオリンを構えたり管楽器をくわえている君を見ること以上に私の心を痛めさせることはほとんど無いのです[8]

これは成人男子にとって音楽は一消費財たるべきモノであり,趣味の対象ですらあってはならないという率直な諭しであり,明らかにロックの所説に沿う主張となっている。

Loesserに拠れば,その派生的帰結がイギリスにおける楽器製造業の変貌……イギリスの職人から移民への担い手交代である。17世紀には多くのイギリス人のヴァージナル,ハープシコード製作者が活躍していた。しかし,18世紀半ば以降,斯界の担い手は外国人,とりわけドイツ系の工匠たちに取って代わられた。ドイツ移民であるJacob Kirchmann改めKirkmanやスイス移民であるBurkhart Tschudi改めBurkat Shudiあたりがイギリスにおけるハープシコード製作者の代表となったのである[9]

4.Adam Smithの賃金論(1776)から

ややあって,ロックの所説を経済理論(?)の形で表現し直して見せたのが経済学の父,グラスゴー大学道徳哲学教授 アダム・スミス(1723~’90)である。その主著『諸国民の富』の第1編 第10章の所謂,賃金論の職種の相違に起因する賃金格差を扱った箇所においてスミスは次のように述べている。

いくつかのきわめて快適で美しい才能は,それをもっているとある種の賞賛を博することになるが,しかしそれを利得のために行使すると,理性からか偏見からか,一種の公然の売春とみなされる。したがってそうした才能を利得のために行使する人びとの金銭的補償は,そうした才能を行使することにともなう不名誉を償うにことたりるものでなければならない。俳優,オペラ歌手,オペラ・ダンサーなどのけたはずれの報酬は,この二つの原理にもとづいている。すなわちその才能が稀少で美しいものであること,その才能をこのようなしかたで使うことへの不評である。われわれが彼らの人格を軽蔑し,それでいて彼らの才能にもっとも潤沢な報酬を与えるのは,一見ばかげているようにみえる。しかしわれわれは,一方のことをするときは,必然的に他方のことをしなければならないのである[10]

要するに,職業音楽家・ダンサー等の高報酬を説明する「二つの原理」の一方は才能の稀少性,他方は名誉ないし体面にあり,とのお墨付きである。無論,後者は単なるアマチュアリズム一般の表明ではなく,ロック以来のカルヴィニズム的な,神に顔向けできるビジネスを最優先させよという教えを戒めを込めたニュアンスの下に再定式化したモノに他ならない。

もっとも,ビジネスなどという観点を持出すなら職業音楽家であれプロ・アスリートであれ,それぞれの天職たるビジネスに勤しむワケであるが,稀少な才能を行使して金儲けに当ることが殊更,下品であるとのご託宣のようである。

では,そこに伏在しているのは「きわめて快適で美しい才能」への単なる妬みに類する社会通念であったのであろうか?

そうではなかろう。読者諸賢にはとうにお察しのとおり,18世紀のイギリスにおいて左様な職種,とりわけ職業音楽家部隊の主力は外国人,とりわけイタリア人やドイツ人によって担われていた。してみれば,「公然の売春」,「不名誉」,「不評」,「軽蔑」といった悪口雑言はスミスが職業芸術家一般に対してでも少数のイギリス人の職業芸術家に向けてでもなく,イタリアやドイツなどから移住して,あるいは出稼ぎに来ていた多くの外国人音楽家を固有の標的として発したそれであろうとの結論になる。つまり,「きわめて快適で美しい才能」の職業的行使に係わるスミス賃金論には第3の原理として民族差別的バイアスが仕込まれていたというのが唯一,正しい理解である。

[1] cf., Loesser, ibid., pp.209~215.

[2] 『ニューグローヴ世界音楽大事典』第1巻,イギリス,芸術音楽の項,493~495頁,参照。

[3] John Locke, Some Thoughts concerning Education.§197より。訳文は北本正章訳『ジョン・ロック「子どもの教育」』原書房,2011年,271頁。なお,原題についてLoesserはonと表記しているが(p.209),正しくはconcerning。引用中の「子ども」はyoung man。

[4] cf., Loesser, ibid., p.212. 筆者による意訳。

[5] ヴェブレン『有閑階級の理論』(岩波文庫,ちくま文芸文庫,講談社学術文庫),参照。

[6] 『ニューグローヴ世界音楽大事典』第1巻,イタリア,芸術音楽の項,537頁,第11巻,ドイツ,芸術音楽の項,370~374頁,参照。

[7] 『ニューグローヴ世界音楽大事典』第1巻,イギリス,芸術音楽の項,495頁,参照。

[8] cf., Loesser, ibid., p.213. 筆者による意訳。

[9] cf., ditto., p.215.

[10] 水田 洋監訳・杉山忠平訳『国富論』(1),岩波文庫,2000年,188~189頁,より。

冗談が定説に

―― モーツァルト書簡の解釈を巡るピアノ技術史のお粗末譚 ――

 膠の最大の欠点は耐水性の欠如にある。ここでピアノ技術史に係わる一つの笑えない挿話を紹介しよう。EhrlichやGood,渡邊順(よし)生(お)らの書物はピアノ技術史に関心を引かれる向きには必読の文献であり,とりわけ後者などは図版が豊富で“読む博物館”の名に恥じない力作である[1]

私たち自身はチェンバロ自体にもフォルテピアノ自体にもほとんど興味はない。こういうモノしか無かった世界の住人を気の毒に思う反面,原理主義者の尊ぶ楽器=手段による制約を超えて近代ピアノの時代に受け継がれ深められているという現実からバッハ鍵盤曲の音楽的深みを思い知り,翻っては近代ピアノ固有のモノとして備わっている音域とダイナミックレンジとを弄んでいるに過ぎない現代クラシックの将来を儚(はかな)むだけの者である。そんな私たちでも,ここに挙げた著者たちの博覧強記ぶりと出典を明記し,後進を導く姿勢には畏敬の念を禁じ得ない。

但し,モーツァルトがその余りの“メカオンチ”ぶりに業を煮やしたフォルテピアノ製作者,J.A.Steinにあしらわれ,デタラメを吹き込まれたと思しき,

彼(シュタイン)はクラヴィーアの響板を仕上げると,それを大気,雨,雪,太陽の光にさらし,あらゆる魔物にさらしてみて,板に割れ目を作り……割れ目ができるとくさび形の木片をはめこんで,にかわで接合します(モーツァルトから父あての1777年10月17日付の手紙。渡邊547頁,cf. Good, p.83)。

という件(くだり)にEhrlichのようにモーツァルトが最高の“traditional process”を記述したとか(pp.15~16, 32),Goodのように“モーツァルトが楽器のメカニズムに通暁していた”とか(p.84),“彼が工房における職人の働き振りを活写した”(do.)とか,“シュタインが響板の矯正に自然力を用いた”(p.85),などというバカ丸出しの講釈を加えられてしまっては興醒めの極みである。

また,この件について渡邊が「とてもまともに受け取ることはできない」「まったく信ずるに値しない」(583頁)と判定してくれたのは誠に幸いではあるが,その根拠たるや全く頂けぬ。渡邊は「水に濡らせば,薄くて敏感な響板材は変形してしまうし,云々」(同)と述べ,結局,“そんな面倒なことをした筈がない”と判定していのである。

渡邊が挙げている諸理由は膠の性質に関する彼の理解がEhrlichやGoodのそれとさして変らぬことを教えてくれる。実際には変形するどころか水濡れなどさせたら膠で接合された響板など速やかに分解してしまうだけである 名工シュタインの冗談(おちょくり)は天才芸術家の鵜呑みを経て2世紀半近く伝承・拡散され続けて来た。実に息の長い思い違いではあるが,こんな有様ではピアノ技術史が聞いて呆れる次第である。

ちなみに,上に引用したモーツァルトの手紙は目ぼしい処を拾っただけても,1879年にBrinsmead,1898年にBie,1954年にはLoesserによってそれぞれの著書に引用されて来た前歴を有している。然しながら,不可解極まることに,誰一人として手紙の記述と膠の性質との不整合について言及してはいない[2]

膠の欠点である耐水性の不足は,膠で結合された部品が年月を経ても蒸気加熱・加湿により容易に分解可能であるという意味で,リビルダーにとっては有難い性質ともなる。

それにつけても,今日,資源リサイクル問題に絡んで「解体性接着剤」なるものが開発されつつあると聞くと「何を今更」の思い無しとしない。この接着剤は成分中に熱膨張剤を含み,解体時には加熱により接着層ないし界面の膨張・破壊を図る仕掛けである。

膠で接合された楽器など,とうの昔から蒸気加熱・加湿により,粛々と解体修理されている。だからもっと膠を使うべし,などと言ったりはせぬが,人智は無限とは言い条,多くの人々はこの間,誤解と忘却の深い罪を犯して来たのではなかったであろうか?[3]

 

[1] cf., Cyril Ehrlich, The Piano  A History. 1976, revised ed. Oxford 1990, M., Good, Giraffes, Black Dragons, and Other Pianos  A Technological History from Cristofori to the Modern Concert Grand. 1982, 2nd. ed. Stanford, 2001, 渡邊順生『チェンバロ・フォルテピアノ』東京書籍,2000年.

[2] cf, Edgar Brinsmead,The History of the Pianoforte. London, 1879. reprint. p.115,  Oscar Bie, A History of the PIANOFORTE and PIANOFORTE PLAYERS. [translated and revised from his Das Klavier und seine Meister. [1898] by E.,E.,Kellett and E.,W.,Naylor《1899, reprinted in 1966》] pp.135~13, Arthur Loesser, Men, Women and Pianos. 1954[reprinted in 1982, 1990] p.100.

膠の使い方,解体性を含め,楽器製造用接着剤としての優れた特性については辻 宏『オルガンは歌う 歴史的建造法を求めて』(日本キリスト教団出版局,2007年)35,36~38,39,43,108,110,114~115頁,が是非,参照されるべきである。

[3] 近代ピアノに係わるマトモな技術史については我々の「近代ピアノ技術史における進歩と劣化の200年――Vintage Steinwayの世界――」http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-59.pdf , 「スタインウェイ・ピアノにおける発音特性と整調規準の推移」http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-65.pdf ,をご参照頂きたい。

自己紹介

1955年生れ。大阪市立大学経済学部卒,いすゞ自動車勤務の後,大阪市立大学大学院経済学研究科へ。大阪市立大学経済学部助手~同教授(2020年3月末まで)。博士(経済学:『舶用蒸気タービン百年の航跡』)。主著『三菱航空発動機の技術史(上下)』,『ピストン航空発動機の進化(上下)』大河出版,2019年(近刊)。
日本産業技術史学会賞 1988年(『日本のディーゼル自動車』)
日本学術振興会専門委員,NEDO機械技術委員等を経験

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