ヴィンテージ スタインウェイのおはなし:④   by 坂上麻紀

今回から⑥までの3回は鉄骨のバーについてのおはなしです。まず,スタインウェイの鉄骨各部の名称を紹介させて頂きます。

モデルはBです(B-211といった長さの数値を添えるのはハンブルクの流儀で,ニューヨーク・スタインウェイなら単にBと表示します)。この図にはプレート・ホールの名前が抜けていますが,これについてはおわかりですね?

複数のバーが鉄骨を支えています。そして,ピアノの鳴り,ピアノの振動しやすさ,鉄骨の振動しやすさを左右するのはウェブ(プレート)ではなく,これらのバーなのです。スタインウェイの鳴りの鑑定法にリムへのノックと並んで,あるいはそれ以上に常用されるやり方はクロスバー,またはセンターバーを握りこぶしの小指側で軽く叩くことです。バスバーには大屋根を外さない限り,手が届きません。

この時,鳴りの悪い個体はゴンと音を発するだけ。これに対して,鳴りのよい個体はボ~~ンと重低音を発して長い響きを聞かせてくれます。

もちろん,その際には弦も響板も振動しているのですが,それらを十分に振動させているのは軽打されたバーで,鉄骨なのです。

なぜ,自らそのように振動し,他を振動させるのでしょうか? その秘密はバーのごく微妙な曲りやねじれにあります。

次の写真は後方から撮ったセンターバーの写真ですが,その湾曲の様子がわかりますよね。ほんの少しねじれているようにも見えます。

もう少し視点を下げると一層,その湾曲が誇張されてよくわかるでしょう。ヴィンテージ スタインウェイのバーは一見,まっすぐなようですがそうではなく,微妙に湾曲したりねじれたりしているのです。そして,その状況には個体差があります。皆,同じように変形しているのではないのです。

まっすぐに見えるニュー・スタインウェイのバーはこのような角度から見てもまっすぐです。それは,詳しいことは別のところで述べていますが,鋳造方法,鋳造技術が違うからです。

機械部品のモト(粗形材と言います)をきっちり作るなら,新しい鋳造法の方が優れています。

しかし,ピアノの鉄骨は微妙に曲がったりねじれたりしている方が弾性があって振動しやすく,そのことがまたピアノをよく響かせてくれるのです。

正確,剛直なバーはピアノの振動,つまりその鳴りを弱くするだけでなく,実はアタックノイズを激しくしてしまうのです。

ヴィンテージ・スタインウェイのおはなし:③   by 坂上麻紀

ヴィンテージ・スタインウェイにはその鉄骨に様々な文字や模様で飾られています。鋳物の製作上,これは面倒なことなのです。

この写真のバー(ダイヤゴーナル・バー)にはSTEINWAY  FOUNDRY STEEL CASTINGの文字が浮かんでいます。

これは今,普通に言う鋳鋼(キャスト・スチール:ちゅうこう)の意味ではありません。この言葉の本当の意味につきましては,すでに別のところで詳しく解説させて頂いておりますのでご覧下さい。

各バーの名称につきましてもそこに書いていますが,この続編 ⑤でもまた,お見せすることにします。

文字や数字,それに数珠玉模様はヴィンテージ・スタインウェイの鉄骨のいたる所にみられます。プレート・ホールの周りにも数珠玉模様があります。新旧のスタインウェイではこれの有無だけではなく,ホールの直径も違っています。

このピアノにはレストプランク・ウェブと呼ばれるピンブロックを抑える部分の鉄骨にも様々な文字が浮かんでいます。

それらはスタインウェイ&サンズ社が取得した特許を書き並べたものです。当時のアメリカではピアノ会社は取得した特許を鉄骨に明示するよう義務付けられていました。

やがてその規制は緩和され,面倒な工作を要する文字表示は衰えて行きました。鉄骨に沢山文字のあるスタインウェイほどよいピアノ,という力説なさる方がいらっしゃいます。

これは鉄骨に浮き彫りにされた文字や数字が製造年代を表す印の意味を持っているからです。

 

 

 

ヴィンテージ・スタインウェイのおはなし:②   by 坂上麻紀

スタインウェイピアノは製造番号からその製造年がほぼ特定できます。しかし,No.104611についてはスタインウェイ&サンズ社に問い合わせてみました。

すると,このピアノは1902年2月14日にN.Y.のディットマーズ新工場で完成し,同年10月18日,最初の買い手であるピアノメーカー,エオリアン社に販売されたことを教えられました。

エオリアンがこのピアノを購入した意図は同社の自動演奏装置ピアノラをスタインウェイのフルコンに装備するための試験台にするためであったようです。1913年,この企画はスタインウェイとエオリアンとの合作“デュオアート”としてデビューすることになります。

このピアノには年月日の記載箇所が3箇所,ありました。一つは鉄骨の奥の端で,写真のように,これは見たままの画像ですが,21/11.01  4126という浮き彫りがあります。前の方は1901年11月21日でしょう。後ろは1901年に造られた4126個目の鉄骨ということでしょう。

2つ目の年月日記載はピアノのお腹(ベリー)の奥,アクションの向こうにあるダンパー・アンダーレバー・アッシーにありました。こちらは1901年11月19日となっています。この部品は今では取り外され,現行品に置き換えられ,取り出されたオリジナルは展示(?)しております。

3つ目の年代表記として,打弦機構であるアクションを支えるアクション・ハンガーの演奏者から見て左後の足許に“1906”という数字が打刻されています。

これはエオリアンで様々な改造が試みられた後,1906年以降にこのピアノが普通の状態に戻された上で二番目の買い手を求めて売りに出されたことを物語っているように感じます。

ヴィンテージ ・スタインウェイのおはなし:①   by 坂上麻紀

古いピアノはとてもよく鳴る! スタインウェイについては特にそう言われています。

もっとも,今のスタインウェイ,特にフルコンであるDの基本設計が固まったのは1884年なので,それより前のDや他のモデルはアーリー・スタインウェイと呼ばれています。

普通にはそれ以後,それも戦前期の作品が最もヴィンテージの称号にふさわしいスタインウェイとみなされているようです。

1902年,ニューヨーク.製のD,No.104611を例にあれこれお話いたします[1]

鳴りのよいピアノとはどんなピアノなのでしょうか?たとえば,大屋根を全開にしたこのピアノの横で大声を出すと,このピアノはウォーンと共鳴音を発し,びっくりさせられます。クシャミをすると同じように,ファックション!と反応します。

このピアノの下に寝て“アッ”と声を出すとこのピアノは長~い残響を発し,深い井戸の中に向かって叫んだ時のような気分にさせられます。

鳴りのよいピアノとは,共鳴しやすい,振動しやすいピアノということになります。

このピアノのリムを内側から指の第一関節をそろえて軽くノックすると驚くほどよくコンコンと響きます。このピアノはそれだけ振動しやすい体をもっているのです。

振動しやすさのポイントは2つあります。ピアノの体であるリムとその中に収められた鉄骨です。

弦が振動するのは当り前ですが,弦の振動はコマを経て響板に伝えられて音になります。

そして,響板をよく振動させるのはそれを支えるリムと鉄骨の役割なのです。今回はリムについてだけ説明いたします。

リムは巨木(年代によってその樹種は異なります)を5mmぐらいの厚さに挽いた長くて薄い板をニカワを塗って何枚も貼り重ねてからピアノの外形に合せて一緒に束ねたまま曲げたものです。

使用される木は南向きの水はけの良い緩斜面で成長した第一世代林(処女林)の木が最適とされてきました。その中から均質な,長く節のない材が選ばれました。

急斜面に生えた木は倒れないようにその幹を反ろうとしますので,まっすぐな部分でもその内部には余分な力が働いていて,それが素直な振動を妨げようとします。

水はけの悪い土地で育った木は水分を多く含み,乾燥させてもなかなか芯まで乾きません。節があるとその辺りは硬くなり材質が不均一になりますから素直な振動は妨げられます。

しかし,いくら自然が豊かなアメリカでも,現在に近づくほど良材は乏しくなってきました。自然乾燥に費やされた時間も長く,その間に材質の改善が求められました。

こんな理由で,良材をふんだんに用いられた時代に造られたピアノほどリムの鳴りがよいということになります。

では,外から見える特徴を少し……。

ヴィンテージ・スタインウェイの中でも古い時代のものの特徴はダブル・ビーデッド・モールです。昔はこんな手間ひまかけた工作が当然のことでした。

ニューヨーク. スタインウェイでも20世紀初頭のものはアームの端が丸くなっています。その後,ここは角ばったデザインになりました。

製造番号とリビルダー名のスタンプです。

1920年代半ばまでのヴィンテージ スタインウェイ,それも多分Dと少し小さいCだけの特徴としてブリッジ・ピンの斜め打ちがあげられます。高音部ユニゾン3弦のピンは一般的な弦に直角ではなく,やや斜めに配列されています。

これは打弦の際のアタックノイズを抑えるための工夫のようですが,やがて普通の打ち方になりました。左下は1997年にこのピアノをリビルド(響板貼り替え)した工房のスタンプです。響板は90年もたつと粘りが失われて音に力感がなくなるからです。

厚さも塗装も薄いので,響板はピアノの大物部品の中では劣化しやすいのです。

[1] ヨリ詳しいことは私たちの http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/111C0000001-59.pdf をご覧下さい。

エンジンの四拍子……最初期の光学式インジケータ“Manographe”に寄せて

四拍子は言うまでも無く誰もが知っている拍子である。この四拍子でタクトを振る時のやり方(先端の軌跡)は,実際にはかなり変種もあるようであるが,一例を挙げれば次のような絵柄となる。

『ニューグローヴ世界音楽大事典』第7巻,指揮の項,11.図,より。

四拍子と聞くと,私などは内燃機関の4サイクルを連想してしまう。そして,自動車用4サイクル・ガソリンエンジンの作動室容積(ピストン位置)と作動室圧力との相関は例えば次のようなインジケータ線図として表現され,これが当該エンジンの四拍子となる。どうも人間にとっては肝心なところで力が入らず,あまり振り易くないようではあるが……。

P.,M., Heldt, High-Speed Combustion Engines. N.Y,. 1941, p.665 Fig.19. 元図は1912年,ClaytonによってJournal of the American Society of Mechanical Engineers誌に発表。

横軸は比率で表された作動室容積,縦軸は圧力である。縦軸の単位はLbs./in2になっており,15のところが大気圧に当る。それゆえ,ここをゲージ圧で “0”と表記しても良い。

もっとも,この図はそれ以外の理由からしても同類の中ではちょっと異色の存在である。つまり縦・横の軸を対数目盛にした図となっているのである。

1の吸入行程と4の排気行程とは圧力の値が低いため,何のケレンもなく普通に描けば,1と4とは押しつぶされたような,ほとんど重なったような線図となり,やや見にくくなる。対数目盛の使用はこれを避けるための工夫である。創案者もまさか彼の線図が四拍子のタクトを巡る雑話に引かれるなどとは思いもよらぬところであったろうが……[1]

インジケータ線図を採取する装置,それがインジケータである。それは自らの蒸気機関に対する診断装置としてJ., Watt(英:1736~1819)によって発明された機械に淵源を発する。その後,これを発展させ,高速で回転するエンジンに適用可能な装置とするため様々な試みがなされ,原点をなす機械式に加え光学式,電気式など,多くの高速インジケータが登場した。

それぞれのグループには多くの種類があり,光学式の中には長尾式,中西式のようなわが国の内燃機関工学研究者の創案になるモノもあった。電気式は一層多士済々であったが,一般論として機械式,光学式,電気式というのが重なりを生じつつも発展の順序であったと観て良い。現在はセラミックの圧電効果を利用する方式が全てを凌駕しているようである。

ところが,光学式インジケータの濫觴は思いの外古く,20世紀初頭,フランスにおいては既にその製品化を見ていたらしい。当時の書物に観る光学式インジケータの原理は図のようなモノであるが,音叉を説明の道具に持ち出しているところなど奥床しい限りである。音叉の振動に因ってその先端付近に取付けられた小さな鏡の角度がaだけ変化すれば,同一の入射光に対する反射光の角度変化は2aとなる。これがオプティカル・レバーである。等しい振動数を持つ音叉を組合わせれば,それらの振動は同調して4aに相当する角度変化が生れ,その結果はスクリーンEに投影される。

L., Marchis, Les Moteurs A Essence Pour Automobiles. Paris, 1904, p.57, Fig.10.

エンジン作動室の内圧をダイヤフラムを用いて検出し,その変位により鏡を傾斜させればオプティカル・レバーの働きで鏡の傾斜はスクリーン上に拡大投影される。この原理を用いた初期の光学式インジケータ,それがManographeと呼ばれた装置である。その基本構成を次に掲げる。Dは光源であるカーバイト(アセチレン)ランプ,eはピンホール,Eは直角プリズム,Fは凹面鏡,GHがスクリーンである。つまり,Manographeはオプティカル・レバーを1段用いる光学式インジケータであった。

ditto., p.65 Fig.16.

“Manographe要部は次図のようになっていた。凹面鏡Fの角度は管Tを通じてシリンダ内圧を受けるダイヤフラムMの動きを反映するとともに,ダイヤルJからのリンケージによって微調整された。

ditto., p.63 Fig.14.

Manographeの使用状況は次図の通りであった。シリンダ圧力は管Tを通じてこの装置へと伝えられる。クランク角を拾うため,クランク軸々端からボーデン・ワイヤのようなフレキシブル・シャフトSによりその回転が取出されている。右下は光源Dにガスを送るためのアセチレンガス発生装置である。

ditto., p.66 Fig.17.

“Manographeがどの程度普及したのかについては残念ながら詳らかではない。当時最新式,文献デビューしたての存在であったためか,出典の書籍にはこれを用いて採取された線図,つまり指揮者Manographeによる四拍子の図は掲げられていない。恐らく,それ程の普及実績は挙げられなかったのであろう。それでも,Manographeは光学式インジケータの嚆矢として,あるいは少なくとも最初期の例として技術史上,記憶に止められるべき存在であったのではなかろうか?

[1] 一般には線図のツブレを避けるため,吸入・排気行程は弱バネ線図とし,縦に拡大表示する。しかし,こうすると線図が錯綜して四拍子を表現しにくくなるのである。

線路は続くよどこまでも……タイヤとレールのお話

機関車トーマスの映画の中でカタキ役のディーゼルが“線路は続く~よ,ど~こまでも♪ ヘッ,どこまでも続く線路なんてあるかい ”とうそぶくシーンがあった。

確かに,どこまでも続く線路などあるハズもないが,終端を持たぬ線路ならアチコチに実在する。丸い線路がそれである。山の手線や大阪環状線,遊園地の線路などがそれである。もっとも,丸いとはいえ,それらはアリストテレスの運動論ばりの真円ではない。曲線が閉じているだけである。

以下に紹介するのはそのような営業を目的とする“果てのない線路”ではなく,研究を目的として敷設され,世界的に評価される実験結果をもたらした“果てがなく,かつ真円であるような線路”にまつわるお話である。所は日本(大阪市此花区),時は大正末期から昭和初期。

鉄道車両の車輪には古くからタイヤ(外輪)と呼ばれる金属製の輪が用いられていた。摩耗すればこれを取外し,ホイール・センター(輪心)に新品のタイヤをはめ込む(焼嵌めする)。ホイール・センターもタイヤも,その材料は時代が下るほどに鋼が優越して来ていた。車輪がその上を転がるレールも鋼製が一般的となる。そして,タイヤやレールに用いれらる鋼種は安価な炭素鋼を相場とした。

タイヤ材料には当然ながら高い耐摩耗性・靭性・疲労強度が求められる。古くはタイヤが硬過ぎればレールの摩耗を増すと考えられ,線路屋と車両屋との間に不毛な対立のタネとなっていた。しかし,鐵道および住友製鋼所(現・新日鐵住金 製鋼所)における体系的な実験の結果,タイヤ材料の炭素含有率をある程度以上高くすることによってタイヤとレールの摩耗量が共に減少するという極めて重要な事実が突き止められた。

1921年に実施されていた鐡道省における予備的研究が摩耗試験機を用いた基礎研究であったのに対して,1923~’34年にかけて行われた住友製鋼所における実験研究は基礎研究および試験車両と試験軌道を用いた実験から成っていた。ここでの話題は後者である。

住友金属工業㈱『住友金属工業六十年小史』1957年、103頁、より。

住友製鋼所における模型電車を用いた試験は鐡道大臣官房研究所,鐡道省工務局,同工作局との共同研究として進められ,1926年3月に開始され’29年1月に終了した。円形軌道の諸元は直径24.4m,軌間430mm,レールは30kg/m,長さ10mであった。試験車は電動車と付随車との連結。何れも2軸車で車輪径280mm,重量2000kg。タイヤとレールの接触圧は鐡道省の機関車におけるそれにほぼ等しく設定されていた。走行速度は約11km/hであった。

様々なタイヤとレールとの組合せで行われた各試験において試験車両は円形軌道をいずれも8,000回りさせられた。一連の実験を通じて見出されたレールとタイヤの全摩耗重量をタイヤ種別に基準を置いて総括すれば次にようになる。

玉置光夫『鉄道車輛のタイヤ』国鉄長野工場,1959年,117頁,第7表。

タイヤとレールの摩耗状況を総括すれば,タイヤの摩耗は炭素含有率が最も高い第1種が最小で,第2種,第3種と続いている。レールの摩耗は第1種タイヤと組合せられた場合が最小となり,第2種,第3種と続いている。タイヤの摩耗量は炭素含有率に鋭敏に反応し,炭素含有率が高いほど少なく,レールの摩耗もタイヤの炭素含有率が高いほど少なくなっている。レールも炭素含有率が高いほど摩耗は少ないが,その相関はタイヤの場合ほど顕著ではなかった。何れの場合でもレールの摩耗量の方がタイヤのそれより大となっているが,その比はタイヤが硬くレールが軟らかい場合ほど高かった。

タイヤとレールの総摩耗量は試験番号6(硬いタイヤと軟らかいレールとの組合せ)で最小,同10(軟らかいタイヤと硬いレールとの組合せ)で最大となっている。次位は試験番号8(硬いタイヤと硬いレールとの組合せ)であった。かような実験結果は山手線の電車において観察される実際の摩耗の傾向とも一致していた。

なお,タイヤの炭素含有率が高く,レールの炭素含有率が低い場合,直線線路上でのレール頭部の摩耗が多くなることが別途,確認されていたため,タイヤの炭素含有率を高めるとともにレールの炭素含有率も程々に増してやることが得策との結論が得られた。

イギリスに範を求めた明治時代の鐡道省規格では硬めとされていた機関車動輪用タイヤ鋼は大正期に至って軟らかめとなり,八幡製鉄所製タイヤに激しい摩耗を生じたりしていたが,大正期から昭和初期にかけては諸外国のタイヤ材料規格を検討して再び硬めとなる兆しを示していた。そして,住友製鋼所における研究成果を踏まえ,鉄道輪軸のトップメーカー,住友製鋼所製タイヤ鋼の炭素含有率は実勢として0.5%台から0.6%台へと漸増させられるに至った。もっとも,国鉄のタイヤ鋼規格に炭素含有率が明示されるに至ったのは1959年からであり,そこでは炭素含有率は更に引上げられ,0.60~0.75%と定められていた。

この項についてのヨリ詳しい情報は玉置前掲『鉄道車輛のタイヤ』,広重 巖『輪軸』交友社,1971年,拙稿「20世紀前半アメリカの鉄道輪軸について(1/2)」(http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBb1170101.pdf ),参照。なお,目下,「本邦鉄道車両用タイヤ技術史」を準備中である。

チム・チム・チェリーによせて ―― 煙突雑考

以下に述べることは音楽にも工学にも素人,曲学阿世の妄言である。

煙突は古くて新しい,そして理想的な設計がなされる(蒸気機関車のそれのように短小なることを余儀無くされたりせぬ)場合には誠に強力な通風装置である。その通風力(根元に作用する吸引圧力)については古くからJ.,W., Reberによる式なるものがあった(そうな)。曰く:

h =H(ρaρw)-(1+0.09 H/D)v2ρw/2g ……旧式の表記で失礼

ただし:

h =煙突下部の通風力(mm水柱)

H =煙突の高さm

D =煙突頂部の内径m

ρa =外気温における空気密度kg/m3

ρw =煙突内におけるガスの平均密度kg/m3

v =密度ρwにおけるガスの速度m/s

g =重力加速度9.815m/sec2

この式は煙突内のガス温度が平均して1mごとに1~2℃ずつ下って行くような状況を想定しており,また,設計上,vは4.5~5.0mとなるように調節されることを常とした。あまりに速度を上げるとガスの流動抵抗が増し,却って不都合と考えられたからである[1]

さて,解らぬなりにReberの式を眺めてみれば,第1項は煙突の中にあるガスの柱に作用する浮力を表し,第2項はこの柱を上昇させる際に使われる運動エネルギに関係するようである。もっとも,ガスは密度が小さいから後者の値は高が知れている。

それかあらぬか,煙突の通風力zを立派に:

zh (γaγg )  mmAq

と表記する文献がある。それも権威ある日本機械学会の出版物である。記号こそ異なれ,その本質的同一性については容易に御了解頂けよう[2]

つまり,煙突の通風力はそこに収められた空気より軽いガスのある高さを持った柱に作用する浮力,即ち,ほぼその高さに因っているというワケである。また,煙突の外観は多くの場合,上に向って細くなっているが,これは強度への配慮からであり,その通風力の本源は決してホースから散水する場合のように出口を先細りに絞ることから生ずる加勢(圧力エネルギの速度エネルギへの変換)などにはないのである。

では,ロンドンが煙の都であった当時,ごく普通に用いられていた煉瓦造りの煙突,それも家庭の暖炉のそれなどではなく工場のそれは一体,どのような構造をしていたのであろうか?

残念ながら,次図は産業革命期のイギリスではないが,20世紀初期にアメリカで汎用されていた全高約30m,38mの工場用煉瓦積み煙突の断面図である(縮尺不同)。御覧のように,最下段にコンクリート,その上にぶ厚い花崗岩のブロックが据えられ,煙突本体はその上に構築されていた。そして,煉瓦積み煙突は耐熱性を考慮して2重構造に造られていた。しかも,その内部は先細りどころかずん胴になっていた。

Machinery’s Cyclopedia with 1929 Supplement. Vol.II, p.102 Fig.2, 3(本文は1917ないし’25年).

従って,ガスを通すその正味の内径は図体の割りには細かったワケである。内部のコアないしライナ(内張り)の背丈は煙突入口のガス温度が427℃以下の場合には煙突全高の20%以下,それを超えて649℃までならその50%程度,更に1093℃までなら100%とするのが常例で,その材料としては多孔質のラジアル煉瓦が用いられた。更に高温のガスに曝される煙突のコアには高級耐火煉瓦が動員された。コアは外壁によって支持されていたが,両者は構造的に一体化されてはおらず,コアが煙突全高に達する場合,コアと外壁の頂部は互いに結合されてはいなかった。もちろん,以上は全てコアの熱膨張を逃がすための策である。

意外に細い内径を有する,特にコアが途中で切れている煙突には石炭から出る煤やタールが堆積し,通風不良を来しやすかった。そこで活躍したのが煙突掃除夫である。図の煙突のコア内径は1.2mほどであったが,これよりずっと細い煙突もあった。いかに細くとも煙突の通風力はその全高によって決まる上,排煙拡散の必要から最低高さが規制されている地域が多かったから,細いから特に背が低いというワケではなかった。

このような煙突を掃除するには外からブラシを出し入れするぐらいで足りるワケもなく,単身コアの中に潜り込んで煤やシンダやタールをこそぎ落す作業が不可欠であった。細いコアに潜り込む掃除夫として最適であったのが児童である。紡績工場の補助労働ばかりでなく,工場煙突の掃除も貧困児童の働き場であった。産業革命は多数の児童の労役と使い捨てによって進行した。皮膚癌や陰嚢癌が煙突掃除「夫」の職業病であったと講義で聞かされたものである。

チム・チム・チェリーのメロディーをどのように演奏するかは奏者の裁量であろう。しかし,歴史を知ってしまえば,それは哀愁のメロディーであってこそ相応しい。仮令,明るく歌うにせよ,哀しみを突き抜けて明るく歌うのと根っからノーテンキなのとでは大違いではなかろうか?

[1] 燃料協会『実用燃料便覧』訂正版,丸善,1932年,431~432頁,参照。

[2] 『機械工学便覧』1951年版,13-72頁。なお,後にその表記法は単位がSI単位に改められたことにより,Z = h (ρaρg )g   Pa などとなっているが,意味は同じである。

善光寺縁起から想像する古代科学技術

以下の雑文は技術史学徒ならではの戯言であり曲学阿世の妄想として御笑覧頂ければもっけの幸いである。くれぐれもこれを真正の宗教哲学における解釈論の真似事などと誤解頂かぬよう御願いする。勿論,当方に仏教冒涜の意図など皆無である。また,音楽との繋がりも今回は精々,以下が一種の“口三味線”であるという点にとどまる。

1.善光寺縁起(https://www.zenkoji.jp/about/engi/)の素人的要約

インド,毘舎離国に月蓋なる貪欲な長者がおり,如是なる姫があった。ある悪疫流行の年,姫は病に倒れ,不信心の長者も愛娘救いたさに大林精舎へと参り,釈尊にお願いした。釈尊は「西方極楽世界におわす阿弥陀如来様におすがりすれば姫のみならず国中の衆生が救われる」と仰った。長者が西方に向けて香華灯明を供え専心念仏したところ阿弥陀如来様が観世音菩薩・大勢至菩薩を伴う三尊の御姿で顕現され国中の悪疫は忽ちにして治まった。

長者は霊験あらたかなる三尊仏の御姿を現世に止めんと再び釈尊におすがりした。釈尊はその願を叶えんと目連尊者を竜宮城に遣わされ,閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)を貰い受けさせた。この閻浮檀金を玉の鉢に盛って阿弥陀如来様の御来臨を請うと彼の三尊仏は忽然として顕現なされた。阿弥陀如来様の嚇嚇たる白毫(びゃくごう)の光明と釈尊の白毫の光明とが閻浮檀金を照らすや閻浮檀金は変じて三尊仏の御姿となった(1)。長者は歓び終生この仏に奉仕し,この三尊仏はインドで多くの人々を救い結縁なされた。

時は流れ百済国は聖明王の治世となっていた。自らが月蓋長者の生れ変わりであるとも知らず悪行を重ねていた聖明王は如来様より過去の因縁を教えられるや改心し,善政へと転じた。百済国での教化の後,如来様は次なる教化の地が日本であるとお告げになった。

欽明天皇十三年(552年),尊像は日本にお渡りになった。宮中では聖明王から献ぜられた尊像を信奉すべきか否かの議が行われ,大臣(おおおみ)・蘇我稲目(そがのいなめ)は生身の如来様である尊像を信受すべき旨奏上,大(おおむらじ)物部尾輿(もののべのこし),中臣鎌子(なかとみのかまこ)は異国の蕃神として退けるべきと主張した。

天皇は稲目にこの尊像をお預けになった。稲目は我が家に如来様をお移しし,やがて向原の家を寺に改めて安置,毎日奉仕した。これが本邦仏教寺院の嚆矢,向原寺である。

しかし,時恰も国内では熱病が流行,尾輿は天皇に「かかる禍は蘇我氏が蕃神を信奉したせいである」と上申,御許しを得て向原寺に火を放つ。かくて向原寺は灰燼に帰したが,如来様の尊容は全く損われなかった(2)。そこで尾輿は如来様を炉に投じ鞴(ふいご)で吹いて熔解させんとするも尊像はやはり傷つかず(3),止む無く彼等は尊像を難波の堀江に投じた。

後年,稲目の子・馬子は父の志を継いで篤く仏法を信仰,反対者である尾輿の子・守屋を滅ぼし,聖徳太子と共に仏教を奨励した。太子が堀江に臨み尊像の御出現を祈念されると如来様は水面に浮上され「今暫くはこの底にあって我を連れて行くべき者が来るのを待つ。その時こそ多くの衆生を救う機が熟す」と仰り,再びお隠れになった。

恰も,信濃の国に本田善光(よしみつ)なる者があった。都に参った折,善光が堀江を通ったところ,「善光,善光」との御声が聞こえ,水中より燦然と輝く尊像が出現した。如来様は善光が過去世にインドでは月蓋長者として,百済では聖明王として如来様にお仕えしていたこと,この国でも多くの衆生を救うため善光とともに東国へお下りになることをお告げになった。

善光は歓喜礼拝し,如来様を背負って帰郷した。善光は貧しく灯明の油にも事欠いていたが,如来様が白毫より光明を放たれるや油の無い灯芯に火が灯り,現在まで続く御三燈の灯火が生れた。如来様の霊徳は次第に人々の知るところとなり,時の皇極帝は善光寺如来様の御徳の高さに深く心を動かされ,伽藍造営の勅許を発せられた。かくて三国伝来の生身の阿弥陀如来様を御安置し,開山・善光の名を寺号とする「善光寺」が造営された。

2.強調部(1)(3)についての注記

以上の記述の中から強調部(1)~(3)に注目すれば,以下のようなことが言えよう。

(1) 白毫とは仏の眉間にあって光を放つ毛だそうである。仏像にはそこに珠玉が嵌め込まれているので良く目立つ。伝承に観る白毫の機能たるやまさにレーザー・ガンなみであるが,そこに含意された古代科学技術上の真理は別のところにあると筆者は一人合点している。

(2) 閻(えん)浮(ぶ)檀(だ)金(ごん)という想像上の金属が持つ極めて高い融点が暗示されている。閻浮檀金をプラチナに比定する解釈も見受けられるが,純Ptならばその融点は1764℃にも達する。また,その硬度や強度は低く,引っ掻けば傷つくし叩けば変形する。合金化してもプラチナの機械的強度や硬度は高が知れている。

(3) 炉や鞴という言葉から高温を得るために燃料の完全燃焼が図られたこと,それでもなお,閻浮檀金を溶解するには温度不足を来していた状況が描かれている。

3.金属の融点と炭素

神話や伝承には往々にして客観的事実や科学的真理が込められているものである。下線部(1)~(3)を通じて合理的に想像し得ることは金属やその錯塩の溶融や流動に係わる一般的性質,即ち,(3)に謂うような酸素リッチ状態で完全燃焼させた場合の高温酸化炎では溶融しない金属や錯塩でも,不完全燃焼させ炭素リッチな状態となった還元炎をこれに作用させればヨリ低い温度で溶融し流動するという特性が古代インドでは経験的に知られていたのみならず,実用されてもいたらしき状況である。

純鉄Feの融点は1530℃で,今日の高炉の中の最高温度は2000℃程度である。もっとも,熱風送風によってコークスを不完全燃焼させて得られるこの高温は熱風送入箇所である高炉下部,羽口付近のそれであり,この熱はそこでは高温のCOガスを発生させるのに用いられる。これに対して,鉄鉱石中の酸化鉄(Fe2O3[赤鉄鉱],Fe3O4[磁鉄鉱])が還元され溶銑になって滴り落ちる高炉上部,還元帯の温度は1200℃程度に過ぎない。この温度で鉄が溶融するのは還元剤であるコークスの炭素が鉄の融点を下げるとともに,その流動性を増してくれるからである。同じ現象は鋳鉄の溶解に用いられていた小形の高炉,キュポラ(溶銑炉)の内部でも起っている[1]

コバルトを60%前後,クロームを30%前後含む耐摩耗性・耐熱性合金ステライトの融点は1300℃近いが,これも両大戦間期以降,酸素・アセチレンの還元炎を用いる手作業によって1090℃付近にて溶融せしめられ,航空発動機排気弁の強化に用立てられていた[2]

小川清二『航空發動機工學』改訂版、河出書房,1944年,145頁、第106図。

4.吹管と吹管分析

ステライティングにおけるアセチレン・トーチの役割を古くから――科学的実験の記録としては1670年から――担って来た装置,それが吹管である。吹管とは“”状の管で,その一端を炎の外部ないし内部に位置させ,他端から呼気を吹き込むことによって所要の方向にピンポイントで酸化炎や還元炎を導く簡単な道具である。吹管によって導かれる炎を吹管炎と総称する。

 三省堂 『新国語中辞典』1967年,吹管の項,挿図。

吹管分析は個体の試料を吹管炎……酸化炎または還元炎で高熱し,そこに生じた化学反応から試料の成分を定性ないし対象によっては定量的に分析する試験法である。炎源は選ばず,ガスバーナ,アルコールランプ,ロウソク,マッチなどの炎が用いられる。試料は白金をチップしたピンセットや白金の針金で支持・加熱されてその炎色反応を,あるいは上図のように木炭などに穿たれた穴の中やガラス管(閉管,開管)内で加熱されてその発光状況や燃焼生成物の臭気・色・磁性などを観察され,その特定成分の含有状況が突き止められる[3]

5.還元的雰囲気の下における高融点金属の溶解

酸化炎では溶解し得ない金属も還元炎を以てすれば溶解し得る。吹管を用いて同じ金属試料に酸化炎と還元炎とを作用させてみれば,この命題を発見することなど誠に容易であったろう。想うに,阿弥陀如来と釈尊の白毫から放たれた光という表現は複数の吹管を同時に発動させる,つまり複数の還元炎を放射する所作に因る一種の坩堝(るつぼ)溶解法の古代インドにおける実用を示唆していたのではなかろうか? また,この坩堝自体が鋳造用の砂型を兼ねるような場合もあったのではなかろうか?

[1] 作井誠太編『100万人の金属学』第2版,アグネ,1976年,1および9章,石野 亨『キュポラ』新日本鋳鍛造協会,1985年,第2章,参照。炭素を含有する鋼(C:0.04~ 1.7%)や鋳鉄(C:1.7~4.5%)の融点は炭素含有率に応じて純鉄のそれより低くなり,鋼なら1400℃程度にまで,鋳鉄なら1200℃程度にまで下る。

[2] 東 彌三・三枝 定・永井 博・三木吉平『發動機工作法』共立社,内燃機關工學講座 第7巻,1936年,108~110頁,小川清二『航空發動機工學』改訂版,河出書房,1944年,145~146頁,参照。ステライトならびにステライティングについては拙著『三菱航空発動機技術史』下巻にて詳しく紹介しておいた。

[3] 平凡社『世界大百科事典』1966年,「吹管分析」の項,参照。使用範囲の縮小を反映してか,’88年の第2版における当該項目の記述は大幅に粗略化されている。

音楽と蒸気タービンの翼車振動測定

日本海軍における蒸気タービン設計技術の進歩は翼車振動への関心の高まりという形で始った。そして翼車の固有振動数が測定され,その結果が或る程度設計に反映されるようになる。妙高型一万トン級巡洋艦の計画当時は世界的に翼車振動への関心が高まっていたが,その端緒は陸用大型タービンにおける翼車バースト(飛散)事故を経験したGeneral Electric Companyの著名な技術者W., Campbelが1924年に発表した記念碑的論考にあった[1]

翼車振動には①:ディスク全体が軸方向にペコペコ振動し波紋を描くような振動,と,②:ディスク周縁部が円周方向に波打つ振動とに類別される。振動する物体にあって振動しない部分を節,最大振幅点を腹と呼ぶが,①において節は円となる。この節円(ノーダル・サークル)が1個である最も単純なペコペコ振動はパラボリックないしアンブレラ振動と呼ばれる。節円が複数あれば,それらは勿論,同心円となる。②の場合,節は直線を呈し,具体的には節直径(ノーダル・ダイヤ)となる。舶用蒸気タービンは事業発電用のそれに比して著しく小さく,ディスクの剛性も高く設計されるため,問題になるのは主として後者である。これを節直径3つを有する振動を例にとって視覚化したのが朝永研一郎の書から採った次図(平面図と円周の直線展開図)である[2]

 節直径3個を有する翼車の振動

朝永研一郎『熱力學・蒸汽タービン』日刊工業新聞社,改訂版,1956年,165頁,第72図。

 

翼車固有振動数の測定に関して『帝國海軍機關史』は:

元来コレ等ノ運動体ハ何レモ其ノ大サ形状等ニヨリ材質固有ノ自然震動ヲ有スルモノニシテ偶外部ヨリヂスターバンスガ其ノ自然震動数ト周期ヲ同フスル場合ニハ同調シテ運動体ノ震動ノ振幅ハ著シク大トナリ其ノ結果物体ハ破壊スルニ至ル従来ノ翼故障ノ多クハ其ノ断面組織極メテ密ニシテ断面収縮ナキ状態ヲ呈シ居リコレ等ハ何レモ震動ニ起因シテ切断セルモノニシテ震動ニ依ル翼ノ欠損ヲ生ゼシメザル為ニハ先ヅ以テ翼車ノ計画ヲ吟味スル必要アリ即翼車ニハ充分ノスチフネスヲ有セシムルコト重要条件トナレリ

数年前迄ハ震動ニ対シテハ多ク注意ヲ払ハザリシガ昭和初頭ノ頃ヨリ翼車計画ニ際シテハ是ガ自然震動数ノ計測ハ欠クベカラザルモノトセラルルニ至レリ[3]

と述べているが,日本海軍の艦本式タービンの定礎者にして最後の艦政本部長を務めた渋谷隆太郎は翼車固有振動数の測定についてヨリ詳しく,次のように述べている[4]

   ……翼車の振動数を測定する方法として色々の案が考えられた。旧海軍横須賀工廠では海兵団の楽隊長に依頼して楽譜から振動数を推定した。旧舞鶴海軍工廠では特殊の弦を作り,それに共鳴せしめ計算から振動数を出すことを考えた。所が其の後スイスから帰朝した石川島造船所の行員神野(信一)氏がエツシヤーウイス社では電磁的に翼車振動数を測定して居たと云う話をしたことにヒントを得て,旧横須賀工廠長浦造兵部に依頼し,電磁的に翼車振動数の測定法を考案したことに端を発し,各工廠に於て電磁的に翼車振動数の測定が行われるようになったのである【強調引用者】[5]

つまり最初は軍楽隊隊員の絶対音感による音楽的評価法,次に弦を共鳴させてこの弦の振動数を計算にて求めるという音響学的方法,水平に置いた翼車に電磁的方法によって様々な周波数の振動を与えて行き,その上に撒かれた砂の集散を見て共鳴点と振動パターンを見出す方法が用いられたワケである。前図上の平面図にはこの砂の分布が表現されており,砂は腹の周辺部から追われ,節の周辺部へと寄せ集められている。

音楽は振動に係わる最も古い芸術であると共に古典古代においては物理学の一分野をなしていた。翼車振動というタービン工学の要諦に係わる解明手段として音楽家の能力や音楽的アプローチが動員されたことは対象の本性に鑑みれば蓋し,当然の流れと言えよう。

もっとも,渋谷によれば,当時の日本海軍技術者による翼車振動研究にはパーソンズ・タービンの胴車部に動翼折損事故があまり発生していなかった事実に引き摺られ,衝動タービンにおける翼車振動を過剰に意識させられる彼らの姿が投影されていた。果せるかな,そのような海軍技術者たちは後年,第二世代艦本式タービンの翼車ではなく,翼車周縁に植込まれた動翼の円周方向2節振動なる現象に足許を掬(すく)われることとなる。これが所謂,臨機調問題の核心であるが,流石にこの辺りの問題は音楽家や機械屋ではなく,物理屋によってのみ解明されるべきモノとなっていた[6]

タービン動翼の基本的振動パターン

朝永同上書,167頁,第74図,(Ⅰ)。

[1] cf., The Protection of Steam-Turbine Disk Wheels from Axial Vibration(G.E. Review, 1924, Transactions of the A.S.M.E. Vol.46, 1924.『機械學會誌』第29巻92号[1924-12]に抄録あり).

[2] 朝永研一郎(1892~’51)は東京帝国大学→海軍(~造機少将)→東京帝大教授→公職追放の後,千葉工業大学,法政大学教授。この書物は「主として旧海軍における経験実績に基づいて記述」されたもので,「序」には海軍の先達,牛丸福作(1882~1956),渋谷隆太郎への謝辞が見られる。本書は生産技術協会が刊行した『舶用蒸気タービン設計法』,『蒸気タービン工作標準』,『旧海軍艦艇蒸気タービン故障記録』,『舶用機関取扱法』等のダイジェスト的内容を有している。

[3] 本書は原著出版年不明、海軍省軍務局編と言われる機密資料。原書房復刻版(上下+別冊) 1975年。引用箇所は下巻594、599頁。

[4] 渋谷隆太郎(1887~1973)は(横須賀)海軍機關學校,海軍工機學校,海軍大學に学び,艦政本部第五部部員を振り出しとして横須賀,舞鶴,呉,廣工廠勤務や海軍大學・海軍機關學校教官(兼担)、海軍技術研究所理學研究部長といったキャリアを交えながら艦政本部第五部にあってはタービン班長,計画主任に累進、1940年に機關中将となり,1944年11月,第27代艦政本部長の地位に就き,そのまま敗戦を迎えた。戦後は生産技術協会を組織し,海軍造機技術や本邦技術界の失敗経験を戦後産業界の共有財産とすべく尽力した。

[5] 『旧海軍技術資料 第1編(2)』107~108頁,より。

[6] 臨機調問題を含め,舶用蒸気タービン技術史については拙著『舶用蒸気タービン百年の航跡』ユニオンプレス,2002年,参照。なお,翼車振動については蒸気動力技術史一般についての拙稿「蒸気動力技術略史」(JAIRO→坂上茂樹)87頁,図4-27の辺りもご参照頂きたい。

母さんの歌,雑考

――“藁打ち仕事”と“せめてラジオ聞かせたい”――

窪田 聡(1935~)の作詞作曲による童謡,「かあさんの歌」は1956(8?)年に発表された。この歌は既に高度成長に火が点いていた頃,世に出された作品であり,そこに謳われている情景は疎開を含む作者の体験とイマジネーションとを織り交ぜた創作であると伝えられている。それゆえ,この歌詞に係わる正確な年代考証を試みることは所詮,不可能かつ無意味な所作となる。それでも,その二番の歌詞をネタに今更ながらではあるが,小さな話題提供と詮索を試みてみたい。

“藁打ち仕事”余聞
先ず,二番の歌詞に顔を出す藁(わら)打(う)ち仕事に多少なりとも係わる,但し,些か余談めいた個人的昔話から語っておこう。そもそも,稲藁は結束用の荒縄や米俵,炭俵の材料,屋根葺き材,履物(はきもの)材料などとしてこの国では古来,愛用されて来た。明治末期より農村では製(せい)縄(じょう)機(き)と称する縄をなう機械の使用が開始されてもいた。藁打ち仕事は藁製品製造の上流工程であり,農家での手仕事としての藁打ち仕事は戦後まで継承されていた。
上に述べた履物とは勿論,草鞋(わらじ)や草(ぞう)履(り)を指す。1920(大正9)年,私の母,フサヱは大阪府豊能郡豊中町(現・大阪府豊中市)の克明第二(→桜塚)小学校に第二期生として入学した。藁(わら)草履(ぞうり)にまつわる茶番劇が演じられたのはこの時である。

新入生クラスの担任は萱野村(現・大阪府箕面市萱野)からやって来る先生であった,萱野村は忠臣蔵の登場人物,萱野三平の生地で,当時は豊中よりは二枚ぐらい格上(?)の田舎であった。田舎者である上に旧弊なこの先生様は新入児童とまみえるや否や,「子供がゴム底のズック靴など履くとは贅沢である。明日以降は藁草履を履いて登校するように」と厳命なされた。

日常履きとしての藁草履は当時,街中ではほぼ過去のものとなっていた。しかし,滑り易い足許でもグリップが利くため,作業用などになお実用されることはあった。従って,その調達自体は容易であったらしい。
ところが,藁草履初日の終業後,教室の床は藁屑(わらくず)だらけとなっていた。これをホウキとチリトリで掃除するワケであるが,細かい藁(わら)埃(ぼこり)は舞い上がるばかりであったから,一年坊主たちはその始末に四苦八苦させられた。流石の守旧派先生もこの惨状を観せつけられてはアッサリと兜を脱がざるを得ず,藁草履の令は旬日を経ずして撤回に至った。以上は北摂の40万衛星都市,豊中が未だのどかな田舎町であった大正中期の挿話である。

“せめてラジオ聞かせたい”……日本人の暮らしとラジオ
日本人とラジオ放送との邂逅時期は当然ながら伝統作業である藁打ち仕事などよりもずっとハッキリしている。即ち,社団法人東京放送局(JOAK)は1925年3月に試験放送を開始,同大阪放送局(JOBK)は6月,同名古屋放送局(JOCK)は7月にそれぞれ放送を開始した。つまり,日本人とラジオ放送との出会いは1925年に遡る。翌’26年,これら3つの放送局は統合し日本放送協会となる。即ち,NHKの誕生である。

やがてこの公共ラジオ放送は政府の公報機関として全国津々浦々まで聴取可能なインフラへと整備されて行く。従って,そのコンテンツには天気予報のような情報や様々なニュース,娯楽,教養のみならず,戦争に係わる軍部からの公報,とりわけ悪名高い大本営発表の拡散などが含まれており,対米英開戦のニュースや玉音放送を国民にリアルタイムで伝え続けたのは勿論,NHKのラジオ放送であった。

ラジオ受信の許可書と諸費用,ラジオの普及
元々,ラジオと言えば電源不要,構造単純,しかし,パワーは乏しく,ロッシェル塩の圧電効果を利用するクリスタル・イヤホンでしか聴くことのできない鉱石ラジオばかりであった 。
やがてパワーがあり,ダイナミック・スピーカーを駆動可能な真空管式ラジオの時代が訪れ,五球や六球,つまり真空管を5つも6つも使用するスーパー・ヘテロダイン回路方式の真空管ラジオがその王座を占めることになる。
当初,と言っても,それが何時頃まで続いたのかについては残念ながら存知せぬのであるが,民間人によるラジオ放送の聴取ないしラジオ放送受信機の設置には「聽取無線電話私設許可書」なる奇天烈な名称の書類が必要とされていた。次に掲げるのは1930(昭和5)年7月,豊中町桜塚の住人であった我が祖父,つまりフサヱの父に下付された許可書表(おもて)面の画像である。類似の画像はネット上に散見されるが,当の品はかなり早い時期に属する一枚と言えるようである。

では,これを押し戴くには一体,如何程の金子を要したのであろうか? 安太郎の家にラジオがやって来たのと同じ年,福岡市内在住者が提出したラジオ受信許可申請書類には設備費として610円,加入登記料として13円を要した事蹟が記されているという。しかも,ラジオ受信機自体が1台40~50円もしたのに加え,聴取料は月額1円もしたそうである。小学校教員の初任給50円前後,大卒銀行員の初任給70円程度という時代なればこそ,ラジオ放送の聴取は誠に物入りな所作であった。もっとも,610円という桁外れの設備費が何に由来するのかについては不明である。送受信機の低出力をカバーするためによほど大きなアンテナでも設置させられたのであろうか?
ラジオ放送受信に係わる諸費用がいつ頃までこれほど高かったのかについて,当方は承知していないが,そういつまでも普及の極端な障害となるほど高い初期費用が課せられていたとも想えない。とは言え,戦前期においてはラジオ塔と称する一種の街頭ラジオが全国の公園など公共の場所に多数,設置されていた。太田氏に拠れば,戦時色深まる1939(昭和14)年度末時点におけるラジオ普及率は未だ全世帯数の三分の一に過ぎなかったということである。

重く大きく低性能で故障も多かった真空管式ラジオ
他方,戦前戦時期を通じ,この国は“電気数学者は居るが,電気工学者は居ない”と揶揄されるような状況に悩まされ続けていた。高尚な理論はひねくられていても,それを具体化するに足る技術が伴っていなかったワケである。この国の電気技術の底はなお浅く,電機技術一般は戦前・戦時期日本の近代技術体系の最も弱き環の一つをなしていた。
時代を遡るほど工程の管理水準が低かったため,国産真空管はその物理特性た寿命に大きな個体差(バラツキ)を託っていた。戦後でもわが理系教授たちの中には学生に実験と称して真空管1個1個の特性データ・サンプリングを課し,素性の良い物を選別させた上,それらだけを自らの実験に使用するという狡猾にして涙ぐましい手口に訴える者があったやに聞く。
もっとも,出来の良い個体であっても,この素子は本質的に振動に弱いばかりか,静穏な環境下で使用されていても赤熱するフィラメントの寿命は短く,その断線がしばしば発生した。切れたフィラメントは通電してもオレンジ色に灯(とも)らぬから故障部位の特定は素人にも容易であった。技術者や趣味人ともなれば切れたフィラメントの足に一瞬,許容値を超える電圧をかけて断線部のギャップからスパークを発生させ,そこを溶着させてしまう技術を共有していた。もっとも,これなどは一時凌ぎの裏技であり,普通人には到底及びもつかぬ芸当であった。
切れた真空管や他の故障部品が手配出来なければラジオは無用の重い箱と化すが,それでも集積回路全盛の現代とは異なり,手仕事的な修繕の可能性が完全に喪失されてしまったワケではない。私には少年時代,木製キャビネット入りのそれを含め,複数の真空管ラジオを分解して遊んだ経験がある。プラスチック・ケースに収まった個体の中にはまだ生きているモノさえあった。死んだラジオでも勿体無くて捨てるに忍びなく,切れた真空管の手配が付けば,などと逡巡している内にトランジスタラジオの,更には真空管式テレビの時代が到来し,他所で不要化したモノまで貰い受けたりもしていたため,何台かの廃物ラジオが相次いで我が家に打ち寄せられ,子供の玩具と化す次第となったらしい。ソックリ同じことは機械式の掛け時計や置時計にも当てはまった。

野暮な想像
では,“せめてラジオ聞かせたい”という周知のフレーズはどのような歴史的位相において解釈されるべきなのであろうか? これを経済的問題一般 ―― 貧しかった日本,法外な諸費用,高価だったラジオ,という風に解釈することは一応可能であろう。しかし,その背景をラジオが純然たる贅沢品であった1930年頃に求めるとすれば,「せめて」という詞(ことば)が皆目,浮かばれぬ。そう言えば,志ん生(五代目 古今亭~)落語の夫婦喧嘩の中でおかみさんが発する啖呵に,“悔しかったら電気の球でも換えてみやがれ”というのがあった。多分,これなども電球そのものが相対的に高価であった時代の記憶と共鳴せしめられるべきフレーズであったろう。
翻って,それはテレビとの対比での「せめて」のラジオであるべきなのであろうか? 我が国におけるテレビ本放送開始は1953年である。しかし,’59年の皇太子殿下御成婚という歴史的イヴェントをせめてリアルタイムの映像で視たいという国民の願いからテレビ受像機購入件数が急増したことは真であるにせよ,’50年代を通じてテレビ受像機はかつてのラジオと同様,未だ贅沢品であった。また,’60年代,テレビが普及し終った時点で故郷に「せめてラジオ」というのも見下した発想が鼻につく上,高度成長期らいマインドでもない。してみれば,テレビとの対比における「せめて」というのもボツである。
やはり,“せめてラジオ聞かせたい”に相応しい時代は準戦時下より後,それも望むらくはキナ臭い戦時下を潜(くぐ)り抜けた復興期……それも’40年代後半であってほしい。当時は衣食住に対する需要が最も切実であったとは言え,ラジオを含むその他工業製品一般に関しても需要はあれど新品・中古品・補修部品を問わずタマ数は決定的に不足していた。その上,復興期の物情騒然たる社会情勢を度外視したところで,本質的に振動を嫌う真空管ラジオなればこそ,仮令,都会のどこかでそれが余っていたとしても,これ気易く鉄道便で故郷に……などという風には参らなかった。

更に悪いことに,復興初期には酷いインフレーションが人々の暮らしに襲いかかっていた。とりわけ,’46年の新円切替えは一般国民の貨幣資産をほぼゼロに減価させた。安太郎が“空襲で灰になってしまうよりは……”との思いから安く手放した二階建てアパート1棟の売却代金も新円切替えのお蔭でセーター二着分の毛糸代になってしまった。半強制の結果であった父母の貯金も戦時国債も一瞬にして完全な紙屑に帰した。“せめてラジオ聞かせたい”はそのような時代にこそ相応しいフレーズと言えるのではなかろうか?